うつりゆくもの 変わりゆくもの 石元泰博の世界12
桂離宮のきれいさび
今回からは舞台を日本へ移そうと思う。石元の代表的なシリーズに、京都の桂離宮を撮影した<桂>がある。柔らかな光の中で軽やかなリズムを生み出す障子や畳、屋根の直線の重なり、線と面で表すモダニズム、飛び石の繊細な配置など桂の魅力を映し出したこのシリーズに出合うと「桂離宮をこの目で見てみたい」と思うことだろう。
石元は桂離宮を二度撮影している。一度目は、ニュー・バウハウスを卒業し、15年間暮らしたアメリカ生活に一応ピリオドを打ち、帰国した1953年である。帰国前、日本建築の展覧会を企画していたニューヨーク近代美術館の写真部長スタイケンに、日本の伝統建築の調査を依頼され、同館の学芸員と展覧会場の数奇屋の設計を担当する吉村順三と数週間、関西を回った。その中で桂に出合った。
シカゴの石と鉄でできた重厚な建物の間で暮らしてきた石元にとって、桂離宮の建築は実に軽やかに映ったという。「書院に向かって立てば、白壁とわずかに陰影をもった白い障子が、周辺の芝と苔の緑に映えてひとしお晴れ晴れと清らかであった。」(『桂離宮』より)。
その軽やかな建築を眺めるうちに、学生時代何度もレンズを向けた、馴染み深いシカゴのモダン建築を重ね合わせていた。桂離宮の中にモダンデザインを見いだした石元は、あらためて単独で桂離宮に通い、特にそのディテールにこだわって撮影した。その成果は1960年、丹下健三、ワルター・グロピウスとの共著で『桂―日本建築における伝統と創造』として出版された。
その後、71年丹下健三との共著で改訂版が出ている。端正なカットの一枚一枚は、拝見していて背すじが伸びるようであるが、この撮影にあたっての裏話が実に面白い。事前の調査旅行のときに宿泊した旅館俵屋が気に入り、撮影の1ヶ月間俵屋に逗留した。お昼には弁当も作ってもらい桂の庭で食べ、気分よく撮影の日々を終えたのだが、ここが京都老舗の高級旅館だとは知らず、宿泊費が払えなくて父親に肩代わりしてもらうはめとなってしまった。
二度目の<桂>の撮影は、1981~82年で、桂離宮の大修復が行われた直後である。張り替えられた襖の桐模様のあでやかさ、部屋ごとに変化する畳の縁の色彩、目の前に広がる豊かで華やいだ空間に圧倒された。アシスタントと滋夫人と、重い機材を担ぎながら、参観者の途切れた時を狙って撮影を始める。ようやくアングルも照明も決まって、さあ撮影という段に、参観者の気配がし、急いでセット全てをばらして、木の陰にあわてて隠れるということもしょっちゅうだったようである。この「桂」はカラーにより『桂離宮―空間と形』として出版された。
一度目に撮影した桂離宮は、かなり痛みも激しく、色彩も飛んだ白と黒の世界であった。それは、かえって余分をぎりぎりまで除いた端正の美を追求していた写真家石元の気持ちに、造形の美しさが、すっと心に入ってきた。修復がなされた後の、豊かな色彩と華やかな装飾の桂離宮が最初の出合いであったなら、おそらく<桂>を撮っていなかったのではないかと言う。桂離宮は、“わびさび”からもう少し膨らんだ“きれいさび”ということばで表現されるが、それらを受け入れる心積もりができたのは、次回に紹介したい京都東寺の「伝真言院両界曼荼羅」との出合いがあったからである。
(掲載日:2006年3月7日)
影山千夏(高知県立美術館学芸課チーフ兼石元泰博フォトセンター長代理)