うつりゆくもの 変わりゆくもの 石元泰博の世界6

《シカゴ こども》1948-50年(「ザ・ファミリー・オブ・マン展」出品作品) ©高知県,石元泰博フォトセンター

二つの国のはざまで

今年(2005年)は、戦後60年という節目の年で、メディアもさまざまな方面で戦争を検証する特集を組んでいた。NHKの新日曜美術館では、世界的な彫刻家イサム・ノグチの特集があった。その中で広島原爆記念の慰霊碑のプランが、ノグチがアメリカ人であるという理由だけで、拒否されたことが紹介されていた。

結局は、丹下健三による現在の慰霊碑になったわけだが、この番組の最後に、テロップで“協力:石元泰博”の名前が出たのに気付かれた方もいることだと思う。番組で紹介されていた丹下の広島の慰霊碑、平和資料館などの建築写真は石元撮影によるものであった。

この番組では、原爆記念碑のデザインを、ただアメリカ人の血が流れているということだけで、拒否されたノグチの苦悶が語られていたが、その番組の最後に日米二つの国のアイデンティティーをもつ石元の名前が出てきたことに、何か感慨深いものを覚えた。

石元は、1939年高知農業高校を卒業した後、すぐアメリカに渡った。満州に行った仲間も多かったが、まずはアメリカで大規模農法を学ぼうと単身渡米した。当時アメリカ国籍だった石元に、「泰博はアメリカ国籍なのだから、アメリカに行く権利がある」と母が送りだしてくれたというが、「日本にいたら兵役に取られてしまうのではないか」という母親の気持ちもあったのではないかという。

しかし、渡米して数年後、石元はコロラド州の日系人収容所アマチ・キャンプに収容される。収容所というと、何かひどい仕打ちをされる場所のような感じがするのだが、精神的に拘束されていたものの、それほどの厳しさはなく、終戦前に収容所を出ることが許された。

学業を終え、再び日本の地を踏んだのは、1953年、石元32歳の時である。この時の来日目的の一つは、ニューヨーク近代美術館写真部長で写真家のエドワード・スタイケンの依頼により、同氏が企画する展覧会「ザ・ファミリー・オブ・マン(われらみな人間家族)展」の日本の出品作品を収集するというものであった。しかし、日本の写真界は、アメリカからやってきた石元を冷視し、十分な協力が得ることができなかった。

この展覧会は、第二次世界大戦後の心の閉塞感、終わらない民族国家間の紛争に、人間の根元的な善の部分を再び信じようと企画されたものだった。1955年ニューヨーク近代美術館で開催され、その後世界各地を巡回し大きな反響を呼んだ。出品作品は世界68カ国の273人、503点の写真が展示された。日本の写真家38人40点も加わった。石元の作品もアメリカの作家として2点が紹介された。

同展は翌年日本でも開催され、全編を貫く深いヒューマニズムに、多くの鑑賞者は感銘を受けた。一方で、展示されていた長崎の原爆被害の写真が、天皇陛下来場に際して主催者側によりカーテンで目隠しされるという事件もあったという。

(掲載日:2005年9月6日)

影山千夏(高知県立美術館主任学芸員/石元泰博フォトセンター)