うつりゆくもの 変わりゆくもの 石元泰博の世界1

《シカゴ 街》1959-61年 ©高知県,石元泰博フォトセンター

風の街―シカゴ

石元泰博は、その厳格な画面構成と温かなまなざしで、シカゴや東京の街並みや子供たち、日本の伝統建築である「桂離宮」「伊勢神宮」などを写した、日本を代表する写真家である。

石元泰博とはどのような写真家なのか。石元をご存じない方への基礎知識として、またご存知の方も今一度確認の意味もこめて、この連載の初めに石元の経歴をまず簡単にご紹介しておこうと思う。

石元は、海外移住者として渡米した父、藤馬と、母、美根の子として1921年(大正10年)にサンフランシスコで生まれた。石元が3才の時に、一家は両親の郷里である高知県土佐市に帰郷。石元は、高知農業学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業するまでの多感な青年時代を高知で過ごした。1939年、農業学校卒業後、大規模近代農法を学ぶため単身渡米。程なく第二次世界大戦が始まり、日本人である石元はコロラド州の日系人収容所に収容される。

終戦前に内陸地へのみ居住が許され、イリノイ州シカゴに居を定める。様々な出会いの中で写真を志すようになり、シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス)で本格的に写真を学ぶこととなる。恩師はハリー・キャラハン。ここで、石元写真の基礎を成す造形感覚を徹底的に訓練し、学内でも優秀な学生に与えられるモホリ=ナジ賞を二度受賞している。以後、シカゴと東京を中心にレンズを向け、その洗練された作品は多くの写真ファンを魅了した。

1996年には文化功労者に選ばれ、写真界だけでなく、デザインや建築界にも高く評価されている。

時が移り様々なメディアが登場し、写真表現も多様になってきた現代にあって、被写体と真正面から向き合い、目の前のあるがままの姿を、忠実に捉えた石元のモノクロームの世界は、光と影によって生まれる写真の魅力をあますところ無く伝えてくれる。そして近年は、都会の雑踏を行き交う人々の後姿を捉える作品を発表している。

昨年(2004年)10月、石元の現存する全作品及びフィルム等の貴重な資料が、高知県立美術館に一括寄贈されることが決まった。正確な数はまだ確認できないが、おそらく7,000点に上る作品数であると予想されている。

筆者は、今回の<一括寄贈>というビッグニュースのイメージ写真は、この作品以外にないと密かに直感した。このすばらしく、途方もない話が、この新聞のようにフワリと風に乗って高知にやってきたように思え、また二枚の新聞紙が半世紀の間、共に歩んできた石元夫妻の姿のようにも感じられたからだ。

これは、1960年頃のシカゴの街である。捨てられた新聞紙が、風にあおられて飛んでいるというだけなのに、なんと洒落ていて清々しい写真だろう。

シカゴの美術館近くのグラント・パークを歩いていた石元は、ふと新聞が風に舞っている光景に出会った。うまい具合に新聞が浮いてくれるまで1時間くらい新聞紙を追いかけて、何ショットかシャッターを切ったという。狙いどおりに新聞が舞った。

シカゴは別名“WINDY CITY”「風の街」と呼ばれる。この写真はシカゴの象徴である。

(掲載日:2005年4月5日)

影山千夏(高知県立美術館主任学芸員/石元泰博フォトセンター)