うつりゆくもの 変わりゆくもの 石元泰博の世界24

《雲》1995年 ©高知県,石元泰博フォトセンター

定かでないもの

雲を見て、いろいろな形を想像するのは楽しい。また、その形を楽しむかのように、雲にはたくさんの名前が付けられているのだが、石元の撮る雲は、何かの物体を具体的にイメージできるものではない。どちらかというとぼやっと、もしくは抽象的な雲をあえて狙っている。

ゆらゆらと集まったり広がったりするミクロの水の粒の集まりとしての雲、何かから何かへ移っていこうとする通りすがりの雲を、パシャリと撮っているような感じがする。撮影場所は自宅マンションの窓辺。「いつも大きなガラス戸近くにハッセルを置いておき、空に面白い雲が浮かぶと、それっとばかりに何をさておいてもベランダに飛び出します」。(石元滋「石元泰博とともに」より)

研ぎ澄まされた造形感覚、徹底的に対象にかじり付き、生まれるモダンで聡明な石元の写真は、1990年代半ばごろからまったく新しいシリーズへと展開している。目黒川の水の流れをはじめ、路上で踏みつぶされ朽ちていく落ち葉や空き缶、雪のあしあと、そして雲といったほとんど形を失ったものに目を向けている。この一連のシリーズを石元は“うつろい”と呼ぶ。

桂離宮、曼陀羅、伊勢神宮と、日本の伝統に体当たりしていく中で石元は、時の流れについて深く意識するようになったという。「特に伊勢神宮では、時間の有様みたいなことを勉強しちゃったんですよね。時間の問題、消えていくもの、日本人の持っている時間概念ていったいなんだろうっていう」。そんなことを考えるようになった。

法隆寺等の歴史的建造物は、そのものを何百年と維持していこうとするが、伊勢神宮は20年ごとに全て壊して、そっくり造り替えるということを、延々と伝えてきている。そのことについて石元は、「法隆寺の時間は直線的だが、伊勢の時間は螺旋でだんだん上がっていく時間」なのではないかと解釈するのである。

雲や、朽ちていく落ち葉などに目をやると、それらは消えていくのではなく変化であり、あるものからあるものへと循環していく、一つの過程の一瞬なのである。そういえば、石元の作品群の中に建築途中の物をよく見掛ける。「なぜ建築中を?」との問いに「完成したものはいつでも撮影できるが、その過程はもう二度と撮影することができないから」と、答える石元の言葉を何かで読んだことがある。それもまた、“うつろい”だったのではないだろうか。

屏風状につながる品川高層ビルが遠くに空を阻み林立しているものの、石元家の窓からはよく空が見える。隣には広大な敷地を持つ緑豊かな三菱開東閣があり、良い借景となっているのだが「木が育って空が狭くなって・・・」と、少々不平をこぼしていらした。すぐ目の前にあるソニーの研修所が、つい最近売却されたそうだ。いつか大きな建物が目の前を塞ぐように建つのだろう。「もう雲なんか撮れないよ。まあ、そのころには自分もくたばってるだろうけどね」などと、からっとおっしゃられる。「ソニーも本拠地を売却するとは情けない。これからどうなっていくのかねえ?」などと、話題は写真のことから時事問題へと、ゆらゆらと流れていくのである。

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2年にわたって、世界的写真家石元泰博の世界を紹介させていただきました。石元写真の魅力を十分に伝えられたかどうか反省ばかりですが、写真が十分語ってくれたと思います。また、勝手気儘な解説を許していただいた、石元泰博氏に深く感謝いたします。

(掲載日:2007年3月6日)

影山千夏(元高知県立美術館学芸課チーフ兼石元泰博フォトセンター長代理)