石元泰博 略年譜
1921|大正10
0歳
6月14日、父・石元藤馬(とうま)、母・美根(よしね)の二男一女の長男として、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ ポスト・ストリートに生まれる。両親は、高知県高岡郡高岡町(現・土佐市高岡町)から渡米した農業移民。
1925|大正14
3–4歳
1月、両親の郷里である高知県高岡郡高岡町に一家で移住。
1928|昭和3
6−7歳
灘・鳴川尋常小学校(現・土佐市立高岡第二小学校)入学。
1931|昭和6
9–10歳
菓子の景品で当たったおもちゃのボックス・カメラで初めて写真を撮る。
1934|昭和9
12–13歳
高知県立農業学校(現・高知県立高知農業高等学校)入学。札幌農学校の流れを汲む第10代校長小川重雄による自由な校風のなかで学ぶ。在学中にサッカーから陸上に転じ、全国農業学校陸上競技選手権大会の中距離走で優勝するなど活躍。
1939|昭和14
17–18歳
3月、高知県立農業学校卒業。同校の配属将校であった椿武忠少佐に渡米を報告し激励される。
4月、近代農法を学ぶため単身渡米、農家で住み込みで働きながら学校に通い英語を学ぶ。
1940|昭和15
18–19歳
カリフォルニア州アラメダのワシントン・ユニオン・ハイスクールに入学(翌年皆勤賞で卒業)。
1941|昭和16
19–20歳
9月から12月まで、カリフォルニア州サンノゼ・ジュニア・カレッジ(現・サンノゼ・シティ・カレッジ)で学ぶ。
12月8日、真珠湾攻撃。
1942|昭和17
20–21歳
カリフォルニア大学バークレー校農業スクール(現・カリフォルニア大学デービス校)に入学するも、まもなく日系人強制収容政策によりカリフォルニア州中部に移送され、東南部のグラナダ・リロケーション・センター(通称アマチ収容所)に収容される。
1943|昭和18
21–22歳
収容所内の消防団とシルクスクリーン工房で就労。収容所内での規制が緩和されたため、知人に預けていたコダックの 35ミリカメラを収容所に取り寄せ、仲間から写真技術を学びキャンプ内を撮影。
この頃ハワイの日系二世がイタリア戦線に送られたことに憤慨して書いた詩をデンバーの邦字新聞に投稿、掲載される。
徐々に収容所でのカメラに関する制限が緩和、6月までにはアマチを含む西部防衛軍管轄外の収容所で没収されたカメラが返却されるようになる。石元も知り合いのアメリカ人に預けていたコダックの35mmカメラを取り寄せ、同好の仲間に写真技術を学び、キャンプ内を撮影する。
1944|昭和19
22–23歳
日本の敗色が濃厚となるなか収容所から出所。沿岸部都市への移住は許可されず、移住を許可されたイリノイ州シカゴのシルクスクリーン会社で働き生活の糧を得る。
1946|昭和21
24–25歳
日本再建のため建築を学ぶことを思い立ち、ノース・ウェスタン大学に入学するも、まもなく退学。
1947|昭和22
25–26歳
アメリカで成功した写真家ハリー・K・シゲタ(重田欣二 1887-1963)の紹介でシカゴの写真クラブに入会。ジョージ・ケペッシュ『視覚言語』、ラースロー・モホイ=ナジ『ヴィジョン・イン・モーション』、アレクサンダー・ドルナー『〈美術〉を越えて』等の著作に触れモダニズム/アヴァンギャルドの写真に開眼。コンペに多数入選。
1948|昭和23
26–27歳
秋、シゲタの勧めでシカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(以下ID/翌1949年イリノイ工科大学に併合)へ入学。 IDは、1937年に同地で元バウハウス教員のモホイ= ナジを校長に迎え設立されたニュー・バウハウスの流れをくむ教育機関で、当時もニュー・バウハウスと通称されていた。同校の基礎課程におけるバウハウス流の感覚の基礎訓練は、石元の作家としての自己形成とその後の制作に大きな影響を与えていく。
1950|昭和25
28–29歳
基礎課程を終え写真学科に進み、写真家・ハリー・キャラハン(1912-1999)、アーロン・シスキン(1903-1991)らに学ぶ。キャラハンは街に出て人を撮ることを奨励し、石元は子どもを中心に街の人々の撮影に取り組んだ。在学中の二度にわたりIDのモホイ=ナジ・スカラシップ・オークションによる奨学金を受ける。
1951|昭和26
29–30歳
16mm短編映画《ザ・チャーチ・オン・マックスウェル・ストリート》を学友マーヴィン・E・ニューマン(1927-)と共作。
『ライフ』誌の「ヤング・フォトグラファーズ・コンテスト」ピクチャー・ストーリー部門でサード・オノラブル・メンションに入選。
1952|昭和27
30–31歳
シカゴを訪れた建築評論家の浜口隆一と会う。
30歳最後の日にあたる6月13日、IDの写真学科を卒業し、学士号(理学)を取得。
1953|昭和28
31–32歳
写真家でニューヨーク近代美術館(以下MoMA)写真部門ディレクターのエドワード・スタイケン(1879-1973)企画の新進写真家グループ展「Always the Young Strangers」に出品。
3月、14年ぶりに来日し、病の父を見舞うため高知に滞在した後、東京都渋谷区幡ヶ谷原町(当時)に住む。以後約6年にわたる日本滞在中、日本の建築、デザイン、美術、写真の領域で大きな反響とともに認知されていく。
3月、スタイケンの紹介で、「Japanese Exhibition House」展準備のため来日した同館建築デザイン部門キュレーターのアーサー・ドレクスラーに同行し、建築家の吉村順三らと京都、奈良などの伝統建築を視察、この際に初めて訪れた桂離宮で敷石を撮影する。
MoMA巡回展部門企画の建築写真展「The Architecture of Japan」のため、畳や襖など日本建築の細部を撮影、出品する(同展は1958年まで米国内各地を巡回)。
8月、『アサヒカメラ』8月号に、ビーチの作品が掲載される。日本の雑誌への初掲載となる。
8~10月、国立近代美術館(東京)での同館初の写真展「現代写真展 日本とアメリカ」にスタイケン選出のアメリカの写真家の1人として出品。
浜口隆一の紹介で、丹下健三(1913-2005)はじめ建築、デザイン界の重要人物らと出会い、国際デザインコミッティー(現・日本デザインコミッティー)の創立メンバーとなる。
『U. S. カメラ1954』にビーチに集う人々の脚を写した作品と子どもの作品が掲載される。
1954|昭和29
32–33歳
1月、美術評論家の瀧口修造(1903-1979)が作家選定をつとめたタケミヤ画廊(東京)にて日本での初個展「石元泰博 写真展」開催。シカゴ時代を中心とした写真のほか、竹のオブジェなども出品。
5月、京都の俵屋旅館に1か月間に渡り滞在し、桂離宮を撮影。
「現代の眼:日本美術史から」(国立近代美術館、東京)に桂離宮の敷石の写真を出品。
ドイツの写真家オットー・シュタイナート企画の展覧会「Subjektive fotografie 2」(ザールブリュッケン国立美術工芸学校、ドイツ)に〈雪と扉〉の作品を出品。
1955|昭和30
33–34歳
この頃より、前年に開校した桑沢デザイン研究所(東京)にて、創立者の桑沢洋子の依頼で構成と写真を教える(1971 年まで)。
スタイケンが企画し、のちに世界各国を巡回した大規模写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」(MoMA)にシカゴの少女の写真2点を出品。
大辻清司、辻彩子とともに実験映画《キネカリグラフ》を制作し、「第2回グラフィック集団展」(松屋銀座、東京)にて上映。
大辻清司との共著『カメラの把えた朝倉文夫の彫塑』刊行。
1956|昭和31
34–35歳
出品および実行委員を務めた「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」展が日本橋高島屋(東京)ほか国内を巡回。
『新建築』6月号に広島ピースセンターの写真が丹下健三の論文と共に掲載。
10月26日、草月流の華道家であった川又滋子(しげるこ。通称・筆名は滋〔しげる〕)と結婚。
同28日、勅使河原蒼風と丹下健三を仲人(後見人)に国際文化会館で会費制の祝宴。この頃より世田谷区赤堤に住む。滋子は結婚を機に華道家としての活動から退き、撮影立会いやマネージャー、プロデューサー的な活動、さらには執筆(泰博の代筆含む)に至るまで、泰博の制作協力者として重要な役割を果たしていく。
「第1回 国際主観主義写真展」(日本橋高島屋、東京)に出品。
この年から58年頃まで、ヌード作品を撮影。
1957|昭和32
35–36歳
写真評論家の福島辰夫企画による「第1回 10人の眼」展(小西六フォトギャラリー、東京)に出品。
この頃、ソロモン・R・グッゲンハイム財団の助成で日本の民家を撮影するプロジェクトを計画するが、実現せず。
「桂離宮」「日本のかたち」等により第1回日本写真批評家協会作家賞受賞。
千代田光学精工(現・コニカミノルタ)からカレンダー「Selected from Yasuhiro Ishimoto’s Collections」(アートディレクション=堀内誠一)刊行。
1958|昭和33
36–37歳
11月20日、日本国籍離脱。
同25日、シカゴと東京の街と人を撮った作品を初の写真集としてまとめ『ある日ある所』刊行。
12月7日、千代田光学精工の援助を得て、滋とともに渡米。
学生時代を過ごしたシカゴに3年にわたって住み、制作に専念。滋はその間、IDの授業を聴講するほか、東洋の美術骨董と日本現代版画を扱うギャラリーに勤める。
1959|昭和34
37–38歳
1月、ニューヨーク滞在。
この頃、本格的にカラーによる多重露光シリーズを撮影し始める。
「第3回 10人の眼」(小西六フォトギャラリー、企画:福島辰夫)展出品のため、多重露光の写真を日本に送る。
1960|昭和35
38–39歳
『KATSURA—日本建築における伝統と創造』(テキスト=ワルター・グロピウス、丹下健三、デザイン=ハーバート・バイヤー)刊行。
シカゴ美術館にて個展が開催され、パンフレットにアメリカの写真家マイナー・ホワイトが寄稿。
全米有色人種地位向上協議会率いる「自由のための行進」や、アメリカ大統領選挙の様子を撮影。
1961|昭和36
39–40歳
9~11月、MoMAでのビル・ブラント、ルシアン・クレイグとの3人展「Diogenes with a Camera V」開催。
12月、日本に戻り、神奈川県藤沢市鵠沼の写真家・影山光洋宅の離れに住み、撮影のため東京に通う。以降、日本を拠点として活動。
1962|昭和37
40–41歳
福島辰夫企画による「NON」(松屋銀座、東京)に出品。
東京綜合写真専門学校教授に就任(1969年まで)。
1959~61年のシカゴ滞在中の作品による個展「石元泰博写真展 chicago chicago」(日本橋・白木屋、東京)を開催。同展でカメラ芸術賞(『カメラ芸術』主催)を受賞。
「御陣乗太鼓」を撮影(1964年まで)。
1963|昭和38
41–42歳
『カメラ毎日』1~12月号に、「東京の顔」連載。
『アサヒカメラ』7~12月号に「Shoot first!」連載。IDでの課題を元にした撮影法を指南。
ニューヨーク万国博覧会(アメリカ)のため、2か月かけて日本各地の工場や発電所等を撮影(〈日本の産業〉シリーズ)。
1964|昭和39
42–43歳
ニューヨーク万国博覧会日本館(建築=前川國男、会場構成=亀倉雄策)で「日本の産業」をテーマにした写真壁画を制作。
竹中工務店の企業広報誌『approach』創刊号に桂離宮の穂垣の写真が掲載。以降建築写真を多数提供。
日本、フランス、イタリア、カナダ合作のオムニバス映画「思春期」の日本編「白い朝」(監督=勅使河原宏)の撮影を担当。
日野自動車企業広報誌『ヒノニュース』(のち『HINODE』)7月号より表紙を担当(2000年代まで)。
1965|昭和40
43–44歳
『カメラ毎日』1~12月号にて表紙を担当。
『カメラ毎日』1、4、7、10月号にて東松照明、長野重一との「共同制作シリーズ」連載。
『SD』3月号に東京の街を写した「東京にて」掲載。
『SD』10月号に、国立屋内総合競技場(現・国立代々木競技場)の写真が掲載。以降、建築写真を多数提供。
1966|昭和41
44–45歳
新設の東京造形大学写真科の主任教授に就任(1972年まで)。
第20回高知県美術展覧会写真部門で審査員を務める。
雑誌『SD』の依頼でシカゴに1週間ほど滞在し、シカゴ派建築を撮影。翌年同誌2月号に約160点が掲載。
1968|昭和43
46–47歳
『太陽』9月号から約1年間、連載「ズバリ現代」にて文化人や芸術家などのポートレートを発表。
年末から翌年にかけての安田講堂事件にいたる東大紛争を撮影。
1969|昭和44
47–48歳
日本国籍を取得。
写真集『シカゴ、シカゴ』(美術出版社)刊行。
1970|昭和45
48–49歳
写真集『シカゴ、シカゴ』により昭和44年度毎日芸術賞を受賞。
1971|昭和46
49–50歳
改訂版『桂—日本建築における伝統と創造』刊行。
藤沢より、東京都品川区北品川に転居、ここを終の棲家とする。
中近東へ取材旅行しイスラム建築の撮影に取り組み始める。その成果は後に写真集『イスラム—空間と文様』として結実。
写真編集者・山岸章二企画による写真全集〈映像の現代〉第8巻として『都市』刊行。
1972|昭和47
50–51歳
9月、父・藤馬逝去。この年、東京造形大学を退任しすべての教職から離れる。
1973|昭和48
51–52歳
『approach』春号より表紙を担当し、2012年冬号まで、カラー多重露光を連載。2001年までは「表紙のことば」としてエッセイも発表。
8月、京都・東寺(教王護国寺)の国宝、伝真言院曼荼羅を2週間かけて撮影。
1974|昭和49
52–53
3~5月、MoMA写真部門ディレクターのジョン・シャーカフスキーと写真編集者・プロデューサーの山岸章二企画による「New Japanese Photography」(MoMA)に桂離宮の敷石の写真を出品。
アメリカ カリフォルニア州パサディナを訪れ、アメリカの建築家グリーン・アンド・グリーンの手による住宅を撮影。
1975|昭和50
53–54歳
南米、中近東、北アフリカ、オーストラリアへ3か月間撮影旅行。
デザイナー・剣持勇の作品を撮影し、剣持勇の世界〉第1巻『その結晶の核:作品』として刊行。
「日本現代写真史展 終戦から昭和45年まで」(西武美術館、東京)に出品。
1976|昭和51
54–55歳
『太陽』1月号から翌年8月号まで全15回連載された「古風土記」(文=松本清張)の写真を担当。
1977|昭和52
55–56歳
「石元泰博写真 曼荼羅展」(西武美術館、東京)開催(以後国内外を巡回)。限定500部の豪華写真集『伝真言院両界曼荼羅』(構成・造本=杉浦康平)刊行。
スペイン、イタリア、トルコ、インドへ1か月間の撮影旅行。
1978|昭和53
56–57歳
伝真言院両界曼荼羅の展覧会と写真集で芸術選奨文部大臣賞、日本写真協会年度賞、「世界で最も美しい本」(ライプチヒ、旧東ドイツ)金賞を受賞。
中国を訪問。
〈現代日本写真全集 日本の美〉第2巻として『 国東紀行』刊行。
12月、インドを訪問。
1979|昭和54
57–58歳
国立国際美術館(大阪)に新規収蔵された《伝真言院曼荼羅写真パネル》(プリント1978年)が展示される。
『蔵』刊行。
木村伊兵衛写真賞審査員を務める(-83、88-91年)。
1980|昭和55
58–59歳
MoMA所蔵のクロード・モネの大作《睡蓮》を撮影した《複製写真 モネ「睡蓮」》が国立国際美術館(大阪)に新規収蔵、展示される。
『日本の庭園3 枯山水の庭』、『イスラム—空間と文様』、『邪馬台国幻想』、『彫—平櫛田中の世界』刊行。
この頃、8×10インチの大判カメラで山手線駅周辺の撮影を開始(〈山の手線・29〉シリーズ)。
1981|昭和56
59–60歳
琵琶湖周辺の寺々で十一面観音像を撮影。
「湖国の十一面観音」(西武百貨店大津店・西武ホール、滋賀 / 船橋西武美術館、千葉)開催。
11月と翌年2月、大修復を終えた桂離宮をカラーとモノクロで再び撮影。
1982|昭和57
60–61歳
『アサヒカメラ』1~12月号に「食物誌」(エッセイ:石元滋)を連載。
4~5月、フォトギャラリー・ワイドでカラー多重露光の作品による個展を開催。
シカゴに約1か月滞在して撮影。
写真専門の商業ギャラリー、フォト・ギャラリー・インターナショナル(P.G.I、東京)にて個展「シカゴ、シカゴ」「ある日ある所」開催。以後もコンスタントに個展開催。
『湖国の十一面観音』刊行。
1983|昭和58
61–62歳
『シカゴ、シカゴ その2』刊行。
「桂離宮— 空間と形」(西武百貨店大津店・西武ホール、滋賀 / 船橋西武美術館、千葉)開催。
新規撮影による全編カラーの『桂離宮—空間と形』が 日本、ドイツ、アメリカ、イタリア、スイスで同時刊行。
紫綬褒章を受章。
1984|昭和59
62–63歳
2月、母・美根逝去。
9月、妻の滋子と共著の私家本『色とことば』刊行。
米ポラロイド社とキュレーター・山岸享子の企画で日本の作家18人が20×24インチの大型ポラロイド・カメラで制作する「スーパー・イメージの世界」に参加し、翌年にかけ〈包まれた食物〉を撮影。
1985|昭和60
63–64歳
国際科学技術博覧会に合わせて開催された「パリ・ニューヨーク・東京」展(つくば写真美術館‘85、茨城)に出品。
日本写真家協会(JPS)展金賞、銀賞受賞。
1986|昭和61
64–65歳
「スーパー・イメージの世界」(有楽町アート・フォーラム、東京)にポラロイド作品〈包まれた食物〉を出品。
この頃、ニューヨーク滞在中にセントラルパークで〈落ち葉〉を撮影。
翌年にかけて、〈HANA〉シリーズを自宅にて撮影。
1987|昭和62
65–66歳
この頃から〈あき缶〉〈雪のあしあと〉などのシリーズを撮影。
1988|昭和63
66–67歳
『HANA』刊行(翌年に英語版刊行)。
1989|平成元
67–68歳
「石元泰博写真展 その感性と視覚 1948–1989」(西武百貨店大津店・西武ホール、滋賀)開催。(翌年、東京の有楽町アート・フォーラムに巡回)
1990|平成2
68–69歳
日本写真協会年度賞受賞。
1992|平成4
70–71歳
日本写真協会功労賞受賞。
1993|平成5
71–72歳
第61回式年遷宮で伊勢神宮を撮影。
勲四等旭日小綬章を受章。
1994|平成6
72–73歳
アルル国際写真フェスティバルでマスター・オブ・フォトグラフィー受賞。アルル名誉市民賞を受賞。
1995|平成7
73–74歳
『伊勢神宮』刊行。
よんでん芸術文化賞を受賞。
1996|平成8
74–75歳
「石元泰博展 現在の記憶」(東京国立近代美術館フィルムセンター、東京)開催。
平成8年度文化功労者に選ばれる。
桑沢特別賞を受賞。
1997|平成9
75–76歳
『日本の写真家26—石元泰博』刊行。
「1997年度(第3回)ヤング・ポートフォリオ展」(清里フォトミュージアム、山梨)審査員を細江英公、篠山紀信と共に務める。
この頃から〈水〉〈人のながれ〉シリーズを撮影。
1998|平成10
76–77歳
「石元泰博展―シカゴ、東京」(東京都写真美術館、東京)開催。
1999|平成11
77–78歳
「Yasuhiro Ishimoto: A Tale of Two Cities」(シカゴ美術館、アメリカ)開催。
2000|平成12
78–79歳
この頃、品川、汐留、お台場の再開発状況を8×10インチの大判カメラで撮影。
2001|平成13
79–80歳
「石元泰博写真展 1946–2001」(高知県立美術館、高知)開催。
2002|平成14
80–81歳
ID写真学科にフォーカスした展覧会「Taken by Design: Photographs from the Institute of Design, 1937–1971」(シカゴ美術館、アメリカ)に出品。
この頃、ノーファインダーによる方法を中心に渋谷、新宿で道行く人を撮影し始める。(〈シブヤ、シブヤ〉シリーズ)
2003|平成15
81–82歳
カラー多重露光と〈HANA〉を掲載した写真集『色とかたち』刊行。
2004|平成16
82–83歳
〈落ち葉〉〈あき缶〉〈雪のあしあと〉〈人の流れ〉〈水〉〈雲〉といった、うつろいゆくものをとらえたシリーズの写真集『刻(とき) moment』刊行。
高知県立美術館平成16年度第1回資料収集審査会にて、石元泰博の全写真作品および関連資料の一括受贈が決定する。以後毎年コレクション展で石元作品を紹介。
ニューヨーク滞在中に脳梗塞に罹る。
2005|平成17
83–84歳
紺綬褒章を受章。
高知県文化賞を受賞。
2006|平成18
84–85歳
1月11日、石元泰博、滋子、高知県知事の三者でプリント、フィルム、著作権の贈与契約を締結。
2月22日、半世紀にわたり石元のパートナーとして、良きアシスタントとして共に歩んできた滋子夫人が80歳で逝去。
4月、「石元滋子さんを偲ぶ会」(東京デザインセンター、東京)。参会者に『滋子 遺文抄』を配付。
2007|平成19
85–86歳
『シブヤ、シブヤ』刊行。
2008|平成20
86–87歳
滋子三回忌の会で『石元泰博+滋子 ふたりのエッセイ』(私家版)を参会者に配付。
8月、半世紀近くにわたり制作を続けてきたカラー多重露光の写真集『めぐりあう色とかたち』刊行。
2009|平成21
87–88
2月、心筋梗塞で倒れる。
「石元泰博[ 多重露光]」(武蔵野美術大学美術資料図書館、東京)開催。
「Ways of Seeing: The Photography of Ishimoto Yasuhiro」(ヒューストン美術館、アメリカ)開催。
2010|平成22
88–89歳
1950年代と80年代の新旧の撮影による全編モノクロの写真集『桂離宮』刊行。
森山明子による評伝『石元泰博—写真という思考』刊行。
「KATSURA: Picturing Modernism in Japanese Architecture, Photographs by Ishimoto Yasuhiro」(ヒューストン美術館、アメリカ)開催。
「石元泰博写真展」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)開催。
2011|平成23
89–90歳
「写真家・石元泰博の眼—桂、伊勢」(高知県立美術館、高知)開催。
1973年撮影の曼荼羅作品による写真集『両界曼荼羅—東寺蔵 国宝「伝真言院両界曼荼羅」の世界』刊行。
2012|平成24
90歳
バウハウス資料館/造形美術館(ベルリン、ドイツ)にて〈桂離宮〉シリーズによる個展開催。
2月6日、肺炎と脳梗塞により都内の病院にて逝去(享年90)。正四位と旭日重光章が追贈される。
「石元泰博写真展 桂離宮 1953, 1954」(神奈川県立近代美術館 鎌倉、神奈川)開催。
「高知県立美術館所蔵 写真家 石元泰博展 ―時代を超える静かなまなざし―」(今治市河野美術館、愛媛 他)開催。
遺族より愛用品や蔵書などが高知県に寄贈される。
2013|平成25
「追悼展 写真家・石元泰博の軌跡」(高知県立美術館、高知) 開催。
誕生日にあたる6月14日、高知県立美術館内に、作品や資料を管理し石元芸術を顕彰する「石元泰博フォトセンター」開設。
2016|平成28
グリーン・アンド・グリーン建築を写した写真の展覧会「Yasuhiro Ishimoto: Bilingual Photography and the Architecture of Greene & Greene」(ハンティントン・ライブラリー、サン・マリノ、アメリカ)開催。
2018|平成30
「モダニストの日本美―石元泰博『桂』の系譜」(三重県立美術館、三重)開催。
「Yasuhiro Ishimoto: Someday, Chicago」(デポール美術館、シカゴ、アメリカ)開催。
*主な参考文献:朝倉芽生 編「石元泰博 略年譜」『石元泰博 生誕100年』(平凡社、2020年)
*図版は全て高知県立美術館所蔵(石元泰博旧蔵)。著作権法第47条および「美術の著作物等の展示に伴う複製等に関する著作権法第47条ガイドライン」に則り、サムネイルサイズにて掲載しています。掲載にあたって一部撮影者、著作権者が不明のものがございました。お心当たりの方は、当センターまでお知らせください。
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