[再録]高知新聞リレーコラム「「石元泰博写真展」に寄せて」
※本ページでは、「生誕100年 石元泰博写真展」(2021年1月16日~3月14日)の開催に際して高知新聞に連載された、担当学芸員らによるコラムを再掲載しております。紙面からウェブへの転載にあたり、一部表記等を改めました。
1. 3館連携の大回顧展
/天野圭悟(県立美術館学芸員)
掲載:『高知新聞』2021年2月11日朝刊
土佐市出身の写真家、石元泰博の生涯や作品を回顧する「生誕100年 石元泰博写真展」が、高知市の県立美術館で開かれている(3月14日まで)。土佐市出身の日本を代表する写真家の大規模な回顧展で、展示に携わった県内外の学芸員が、その魅力を計5回にわたって紹介する。
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今回の写真展は県立美術館と東京都写真美術館、東京オペラシティアートギャラリーの共同企画で、2年前から動き出した。昨年秋には東京の2館で関連の展覧会が開催され、約350点が並ぶ高知の展示はその集大成となっている。
石元作品の近年の展示は、水戸芸術館現代美術ギャラリーの「石元泰博写真展」(2010年)、県立美術館の「写真家・石元泰博の眼―桂、伊勢」(11年)が挙げられるが、複数の美術館が総力を結集して行う展覧会は今回が初めてである。
「桂離宮」など代表作を揃えた展覧会はあったが、生誕100年の節目に同じような内容では、「石元さんのある一面しか取り上げられていないのではないか」という話になり、写真家としての仕事をできるだけ丹念に広くすくい上げていくこととなった。
当初は、東京2館が20年7月中旬~9月末、9月末~11月末と連続開催だったので、各館の持つ特質を生かし、写真美術館は写真プリント1枚の美しさや芸術性の視点からの展示、東京オペラシティは普段現代美術を展示する広いスペースを最大限に生かした展示を行うことになった。
また、当館の3万5千点を超えるコレクションを生かし、2館で作品が重複して展示されないよう工夫した。写真美術館では、シカゴと東京を往還することで構築された独自の都市観で撮影された中盤から晩年にかけての作品を選りすぐり、石元の仕事を通して見た「生命体としての都市」をテーマに展示を行った。東京オペラシティでは「伝統と近代」をテーマに、作家活動の前半で撮影された多様な被写体と関連資料を多く並べた。
続いての開催となる県立美術館は、これら両方の視点を合わせた展示プランで構成した石元の大回顧展とすることになった。
昨年4月の新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言の影響で予定が変更となり、東京の2館は会期が重なったが、展示構成が異なっていたことが功を奏し、結果的に石元の写真家としての多様性を再確認する機会となったのは嬉しい誤算であった。
高知での写真展には東京2館では展示されていない資料が多く並んでいる。中でもカメラのコレクションは高知のみの展示である。
ケースの中にライカのカメラなどと並んだ「ディアドルフ」という大型のシートフィルムを使うカメラは、近くに展示された東京の鉄道沿線を写した「山の手線・29」シリーズの作品撮影に使われたものだ。
撮影機材などの資料を作品と合わせてご覧いただくことで、これまでと違う写真家としての石元泰博の一端を感じ取ってもらえれば幸いに思う。
2. 「触覚」にクローズアップ
/福士理(東京オペラシティアートギャラリー シニア・キュレーター)
掲載:『高知新聞』2021年2月12日朝刊
県立美術館で開催中の本展は、高知ゆかりの偉大な写真家の仕事を過去最大規模で回顧する展覧会だ。そのベースとなったのは、東京都写真美術館と東京オペラシティアートギャラリーで昨年行われた二つの展覧会であり、筆者はそのうちオペラシティでの企画を担当した。
石元作品といえば、その優れた造形性で名高い。しかし、その美質を単なる構図の巧みさに矮小(わいしょう)化するなら、石元写真の核心を捉え損ねかねない。3万5千点におよぶ県立美術館所蔵の作品を、展覧会準備のため通覧して筆者が身をもって実感したのは、構図の巧みさなどではなく、むしろ石元写真が持つ語りかけてくるような独特の「表情」であった。
例えば、代表作の桂離宮シリーズ(1953、54年)を見てみよう。内外で高く評価されてきたシリーズだが、予想外のアングルや厳しいフレーミングなど、その透徹した手法に迷いはなく、今日の眼から見てなお鮮烈だ。
しかし、ここで大切なのは、石元が桂離宮がかもしだす日本情緒などに目もくれず、個々の部分、とりわけ庭の飛び石や踏み石、そして御殿の建具など、個々の部分のテクスチャー(質感)の微妙な差異を、すなわち「触覚」に関わる特性を鋭くクローズアップしていることだ。
石元の写真には、視覚のみならず空間の中で生動する「触覚」、そして運動感覚、湿度や臭い、光と影、その全てがあり、まさに諸感覚を動員して可能となる「体験」の豊かさが鮮烈に喚起される。石元が撮ったのは、対象の形ではないし、瞬間でもない。彼が撮ったのは、形を形たらしめている力であり、形や空間、そして時間をも越えて生起する「体験」そのものなのだ。
そこで根本において問題になるのは、表面的な構図などではなく、生身の人間のトータルな感覚、その総合性にほかならない。石元が学んだシカゴの美術学校「ニュー・バウハウス」の創設者モホイ=ナジの「芸術は感覚の研磨機である」との言葉が、ここでせり出してくるだろう。
ニュー・バウハウスは、人間の普遍的な能力である感覚や感性を、とりわけ「触覚」に焦点を当てて拡張、組み替え、再構築することに注力し、それをあらゆる造形活動、とりわけ科学技術時代における新たな環境や社会の創出のための礎にしようとした。
その基礎課程には、木を削って、見た目ではなく、手で握った時に一番しっくりする形を作るという「ハンド・スカルプチャー」の課題があり、石元自身も繰り返し言及している。それはまさに「触覚」の重要性を理解し、形を形たらしめる力を感じ取る訓練にほかならなかった。手でものを握れば、ものの内側からの膨らみと、内なる生命の力が感じ取れるだろう。
筆者が実感した独特の「表情」とは、まさに視覚を越えて、触覚に働きかけ、さらに五感をも巻きこむ「体験」の豊かさへと誘う、石元作品のあらがいがたい力なのであった。
3. 受け継がれるもの
/山田裕理(東京都写真美術館学芸員)
掲載:『高知新聞』2021年2月13日朝刊
県立美術館と東京オペラシティアートギャラリー、東京都写真美術館の共同企画によって、石元泰博の生誕100年を祝す展覧会が、昨年から今年3月にかけて、3館それぞれで開催されている。
東京都写真美術館では、「石元泰博展―シカゴ、東京」(1997年)、今回の共同企画展「石元泰博写真展 生命体としての都市」(2020年)と、2度の石元の個展を開催してきた。
石元が高知県に寄贈したプリントは約3万5千点にも及ぶ。加えてフィルム約15万枚、機材や写真集などの関連資料も、同時に多数寄贈された。30年間写真・映像作品を収集し続けてきた東京都写真美術館の昨年3月末時点での総収蔵作品点数が3万5891点であることと比較しても、石元のその膨大なコレクションを管理・調査することの困難さを想像するのは難くない。
本展の共同企画は、この高知県の豊富なコレクションと、県立美術館で積み上げられてきた地道な調査・研究によって実現した、大変貴重な機会であった。
農業移民の子としてサンフランシスコに生まれた石元は、両親の故郷である高知で青年期を過ごし、その後アメリカに戻り、シカゴのニュー・バウハウスでモダンデザインや写真の技術を本格的に身につけることとなる。
卒業後は東京を拠点に、シカゴはじめ、国内外のさまざまな場所を訪れ、写真家としての活動を続けた。とりわけ、都市の在り方が全く異なるアメリカと日本を往還する石元にとって、「都市とは一体何なのか」という疑問は当然のこととしてあっただろう。
1940年代から撮影され注目を集めた「シカゴ、シカゴ」、東京で撮影された「都市」「山手線・29」「シブヤ、シブヤ」、より身近なものへと視線を移した「刻(とき)(別名・うつろい)」。石元の作品全てにおいて、独自の都市への視線をいかに一枚一枚の印画紙へと昇華していくことができるのかといった、造形写真に対する石元の挑戦を常に窺(うかが)うことができる。
シカゴや東京で、街とその空間に生きる人々へ向けられた石元の視線は、1980年代にニューヨークのセントラル・パークで、ふと濡(ぬ)れた落ち葉へ向けられた。この落ち葉に始まり、空き缶、雪のあしあと、雲、水、人の流れをモチーフとして撮影されたこれらの作品群によって、形作られたのが「うつろい」というシリーズである。
そしてこのシリーズは、2004年に写真集「刻(とき) moment」として出版された。同書を上梓(じょうし)した時、石元は82歳。「肉体も物体も消滅するが、死後みんな『小さな粒子』になって、次々につながり、螺旋(らせん)を描きながら限りなく未来へ上昇していくのではないか」と、妻の滋子と当時よく話していたという。
石元のこの思想に基づくのであれば、石元や滋子の「粒子」が、県立美術館・石元泰博フォトセンターを軸に、あらゆる人、あらゆる場所に、つながりをもたらしてくれるのではないだろうか。
4. 全てを高知県に
/影山千夏(元県立美術館学芸員、NPO法人地域文化計画理事)
掲載:『高知新聞』2021年2月17日朝刊
石元泰博氏と県立美術館との関係は、2001年に開催した「石元泰博写真展」から始まった。同展の担当だった私は、これをきっかけにその後もご夫妻とは長いお付き合いをさせていただいた。
東京品川の石元氏のマンションに年数回訪問することが、石元氏がお亡くなりになるまで続いた。白い壁と深いブルーのじゅうたん、イームズやウェグナーなどのモダン家具、ドイツ製の壁面キャビネットの扉を開けると一面に写真、雑誌、哲学書などさまざまな本が詰め込まれ、あふれた写真集が床に高く積み上げられていた。そこは石元氏の思考そのもののように感じられる空間だった。
お子さまのなかったご夫妻は、作品の行く末を県立美術館に託された。作品の一括寄贈である。美術館においては、代表作をセレクトすることが一般的だが、「まとめてあること」を強く希望された氏の意思を尊重し、氏が所有する全ての写真作品を受け入れることとなった。
その後、石元夫妻と高知県担当部、美術館が協議を重ね、弁護士の意見も伺い、寄贈の内容がまとまっていった。
「高知県は石元作品の芸術的価値を保持し、その文化的評価を広げるため、石元写真作品および写真ネガフィルム等を高知県立美術館に収蔵し、作品目録を作成し、独自のコレクションとして、その整理、保存、展示などに努めることとする」を第1条に06年、石元夫妻と高知県との間で契約が交わされた。
12年に石元氏が亡くなった後、本格的な受け入れが始まった。石元研究のためには、関係資料などを集めアーカイブズとしての機能を深めていくことが不可欠であり、そのためには、氏が所有する書籍、さまざまな書類などは必須である。
そこには氏の代名詞「モダニズム」を直接的に感じられる家具類も含まれる。「そこまで収蔵する必要があるのか」と当時喧々諤々(けんけんがくがく)の議論は紛糾したが、私としては譲ることができず、その意義を強く主張し、ご遺族のご同意も得られ、石元コレクションとして収蔵することができた。
これらが、今開催されている展覧会に深みを与え、石元氏の写真の背景をたどる重要な要素となっている。その後も少しずつ遺品資料のお預かりが進められ、中でも「私のユートピヤ」と手書きされた高知農業高校卒業時の友人の寄せ書きノート、日系人収容所で撮影されたアルバムは石元研究の重要な資料になるだろう。今回展示されているのでぜひご覧いただきたい。
アメリカ移民の子として生まれ、日米の国籍を持ち、収容所を経験し、日本の戦後の復興を体現してきた石元氏の生涯。そして、建築を始め、日本の古代や曼荼羅(まんだら)、イスラム文化、デザインなど多岐にわたる密度の濃い膨大な仕事。多くの文化人と写真界を超えた交流。石元泰博というひとりの写真家の破格の資料群は、あらゆるものが交わり文化を形成していくのだ、ということをあらためて教えてくれるのである。
5. 開かれたコレクションに
/朝倉芽生(県立美術館学芸員)
掲載:『高知新聞』2021年2月18日朝刊
県立美術館が所蔵する美術品の総数は約4万2千点。このうち約3万5千点が石元泰博の写真作品である。単純計算すれば、当館蔵品の8割以上が石元作品となり、その点数がいかに並外れたものかがお分かりいただけるだろう。
石元の没後、いわば県立美術館の中にさらに石元専門の美術館を内包するような形で開設された「石元泰博フォトセンター」の責務として、まず何よりもこの膨大なプリント作品の保存整理、調査研究がある。
適切な環境下での保存はもちろんのこと、この圧倒的な量を管理するには、デジタル技術の活用も欠かせない。2019年度には、作品画像や収蔵番号、分類など、今まで蓄積してきた種々のデータを統合し、クラウド型のデータベースを構築した。これにより、収蔵情報の一体的な管理が可能となった。
今後は、画像認識技術や国内外の有識者の力も借りて、被写体の特定などを進め、作品情報の充実を図っていきたいと考えている。将来的には、海外の研究者から県内の石元ファンまで、幅広い層に向けた公開版の構築も目指している。
当館蔵の石元コレクションは紙焼きの写真だけではない。15万カット以上の写真フィルムをはじめ、愛用した撮影機材、蔵書、書簡類やスクラップ、そのほか日用の品々なども含まれている。
筆者のように生前の石元と交流がない者にとって、その人柄や思考の痕跡を如実に物語るこうした資料群は、作品と同等に貴重なものである。昨今、美術館業界ではこうしたアーカイブ資料への関心が高まっていて、当館においても、国際標準を踏襲した目録化や資料管理など、最新の動向を注視しつつその整理と活用を進めていくつもりだ。
館蔵品以外の作品・資料の調査も重要だ。委託された建築写真などは撮影後、クライアントの手に渡る場合が多く、多面的に石元の仕事を捉えるには、それらの所蔵機関との連携が必須である。
また、当時の様子をたどるには掲載書誌の調査も欠かせない。昭和のカメラ雑誌は写真界の最前線を体現する存在であり、石元も旺盛な作品発表を展開しているが、今となっては入手困難な貴重書も多く、その収集が急がれる。
今回の生誕100年展は、こうしたフォトセンターの日々の地道な活動が基盤となっている。前述の作品情報のクラウド化により、共同企画館の学芸員が、遠隔でいつでも全作品を閲覧することが可能となり、これが展覧会準備における円滑なやり取りだけでなく、企画内容に及ぼした影響は大きいと感じる。また、直近の調査で見つかった作品や、新規収集した資料などが、本展で多数お披露目されている。
生前あるインタビューで石元は、「作品は美術館の隅の方に積んでもらえばいい、いつか興味のある人が見るだろうから」という趣旨の言葉を残している。石元の仕事の真価を後世に伝えていくには、石元コレクションが“興味のある人”に対して、常に開かれた存在である必要がある。自身の生涯を懸けた探求の全てを、高知に託したいと願った石元の思いを胸に、収蔵庫の“隅の方”に置くには、あまりに膨大なコレクションと格闘する日々は続く。