うつりゆくもの 変わりゆくもの 石元泰博の世界2

《シカゴ 街》1951年 ©高知県,石元泰博フォトセンター

黒人女性と白人の赤ん坊

第二次世界大戦も末期、石元がコロラド州の日系人収容所アマチ・キャンプを出て、居を定めた街はシカゴだ。終戦前に、収容所を出ることは許されたが、沿岸地方に行くことは禁じられていたためだ。「シカゴは通称“風の街”と呼ばれる」と前回書いたが、シカゴのあるイリノイ州は“リンカーンの地”という。アメリカの車のナンバープレートには、各州の愛称が書かれていて、シカゴのあるイリノイ州は“Land of Lincoln”と記される。“奴隷解放宣言”等人権問題に取り組み、アメリカ人をはじめ世界に愛されたアメリカの16代大統領リンカーンは、ケンタッキー州の出であるが、大統領に就任するまでの約30年間をイリノイ州の州都スプリングフィールドで過ごしたことによる。

シカゴにも、リンカーンの名を冠した施設がいくつかある。この写真は、シカゴのダウンタウンから北に上がったミシガン湖畔にある<リンカーンパーク>で撮られたものである。石元が通った大学とアパートの間にこの公園はある。広大な敷地で、多くの市民が利用する公園だ。

厳しい冬が過ぎ、気候が良くなってくると、日光浴や散歩にリンカーンパークに市民がやってくる。この赤ん坊と黒人女性もそんな中の二人である。この日も、撮影をすべく、ローライフレックスを持って散策していた石元は、この二人を見つけた。

この黒人女性はおそらく裕福な家庭に雇われた家政婦かベビーシッターであろう。少しの間二人の様子を見ていると、女性の読んでいた雑誌がめくられ、バーボンの広告ページが現れた。

こういうところに石元の視点の面白さがある。奴隷解放を宣言したリンカーンの名のつく公園の白人と黒人、かつて禁酒法のあったアメリカの酒バーボンの広告、いろいろなことを考えさせられる作品だが、ロバート・フランクの《白人の赤ん坊と黒人家政婦》に表れる不安なイメージは感じられない。

人種差別や経済格差などアメリカ社会の問題も根に持ちつつも、バーボンの広告に見入る黒人家政婦の表情は、人間くさくて開放感が感じられる。広告の白地のページはレフ板のように太陽の光を受け、ちょうど女性の顔に柔らかな光をあてていることも、効果的だ。右手の人さし指を栞(しおり)のように挟んでいるページには、どんな記事が掲載されているのだろうかと、そんなことも気になってしまう。

この作品が撮影された1951年は、石元29歳、大学3年の頃である。彼の通った大学は、シカゴ・インスティテュート・オブ・デザイン通称ニュー・バウハウスと呼ばれる大学で、この学校は、特徴のある教育システムで知られている(この教育システムについてはまた回を新ためて紹介しようと思う)。バウハウスとは、ドイツに開校された総合的な芸術造形学校で、1919年に創設、33年にナチスにより閉鎖、解散させられている。代表的な教授にクレー、カンディンスキー、モホリ=ナギらがいる。そのバウハウスの理念を継いだ形でアメリカに開校されたのが、ニュー・バウハウスである。

この学校では、<モホリ=ナギ賞>として優秀な生徒一人に毎年奨学金を出している。モホリ=ナギはニュー・バウハウスの創設者でもある。石元は、この賞を大学3、4年と連続で受賞している。学費が全額免除され、アルバイト収入もあった石元は、4×5、6×6、35mmの3台の自分のカメラを持つことができた。学校のカメラで撮影していた学生もいたから、ずいぶん自由に撮影をすることが出来たことだと思う。とはいえ、昼は学校、夜はアルバイトと忙しい日々で、撮影に没頭できるのは日曜日だけだったようである。

(掲載日:2005年5月10日)

影山千夏(高知県立美術館主任学芸員/石元泰博フォトセンター)