生誕100年 石元泰博写真展 アーカイブページ
*このページでは、当館にて2021年1月16日より3月14日まで開催された「生誕100年 石元泰博写真展」の記録を掲載しています。内容は随時更新します。
コラム[別ページ]
高知新聞で連載された担当学芸員らによるリレーコラム
展示内容
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01_カメラとの出会い
石元泰博は、農業移民として太平洋を渡った父・石元藤馬と母・美根の間に、1921年、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで生まれました。3歳の時に日本に移り、17歳までの少年時代を、両親の郷里である高知県高岡郡(現・土佐市)で少年時代を過ごしました。
02_ニュー・バウハウス
1948年、石元はドイツの造形学校「バウハウス」の流れを汲んだ、通称「ニュー・バウハウス」(石元在学時および現在の正式名称はインスティテュート・オブ・デザイン。略称ID)に入学します。
初代校長であり、その礎を築いた芸術家ラースロー・モホイ=ナジ(1895-1946)の残した教育理念やカリキュラムを通して、石元は多角的に造形感覚を磨きました。また、ハリー・キャラハンやアーロン・シスキンといったアメリカ写真界を代表する写真家の教えにも多大な影響を受けました。
ここでは同校での教育の様子が伝わる作例や、すでに確かな造形力と独自性が光る石元の在学時の作品を紹介します。
ビーチ
五大湖の一つであるミシガン湖は、シカゴの東側に位置し、そのビーチは市民たちの憩いの場となっています。浜辺の売店に集う人々の下半身を背後から写したシリーズは、ニューヨーク近代美術館での若手写真家の展覧会に選出され、アメリカのカメラ年鑑にも取り上げられるなど、初期の石元の代表作の一つです。
シカゴのこどもたち
路上に出た石元が多く撮影したのは、スラム街の路地で遊ぶ小さなこどもたちでした。自身も有色人種として差別を受けることが少なくなかったこともあってでしょうか。黒人などの移民のこどもたちに向けられた眼差しには、どこか親密さや優しさが感じられます。
石元泰博「Shoot first! 第6回 人間を撮りましょう」『アサヒカメラ』1963年12月号
レイク・ショア・ドライブ・アパートメント
ミシガン湖畔沿いに立つ、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエ設計の高層建築を、石元はアオリ撮影の課題で被写体にしました。この経験によって、後に日本で桂離宮を訪れた際、木造の高床構造が、レイク・ショア・ドライブ・アパートメントの鉄とガラスのピロティに重なって見えたのだと語っています。
この作品は、同課題とは別の機会に撮影されたものと考えられますが、建築物のなかに抽象的なかたちを見出そうとカメラを構えていることが分かります。
03_桂離宮1953, 54
石元の代表作として知られる桂離宮との出会いは、ニュー・バウハウス卒業後、来日してまもない1953年3月のこと。ニューヨーク近代美術館の学芸員や建築家の吉村順三の調査旅行に同行した時でした。
テクスチャーの表現が顕著な敷石の連作は、実際に庭園に立った際の身体的な感覚を喚起するかのようであり、梁や柱の直線と襖や障子の色面で構成された、抽象絵画を思わせるような視点で切り取られています。
石元が日本の伝統建築に見出した、こうした斬新なイメージは、50年代日本の芸術界に大きなインパクトを与えました。
04_東京 1950-70年代
東京は、石元が人生でもっとも長い時間を過ごした街であり、また生涯を通して挑み続けた被写体でもあります。
ここでは、戦後間もない50年代から高度経済成長期の60~70年代に撮影されたストリートスナップを中心に紹介します。
造形
「造形的」「デザイン的」と称される石元写真は、土門拳率いるリアリズム写真が席巻する50年代初頭の日本写真界においては異質な存在でした。ここで紹介する写真からは、路上を歩きまわりながら次々と不思議なかたちやテクスチャーを発見し、写真におさめていく喜びが鮮明に伝わってくるようです。写真雑誌では「東京造形散歩」と題したシリーズを連載、初めての写真集『ある日ある所』では多くのページをこうした傾向の写真が占めています。
日本のかたち
「以前、「日本の形」というグラビヤを「世界」という雑誌で受け持った。かつて我々を取り巻いていた、伝統に裏打ちされた美しい形の日常品、“柘植の櫛”“筆”“包丁”などなどだ。幸い好評で、第二弾は、「日本の楽器」を取り上げ、少し丁寧にその源を訪ねてみることになった。すると、それらはことごとく他国に源を発していて、確か唯一、拍子木だけが“純日本古来のもの”ということになってしまい、面食らったり、ウーンおもしろいと感心したりしたものである。」
『approach』2000年夏号、竹中工務店
東京のこどもたち
シカゴと同様に東京でも、石元は路上で遊ぶこどもたちを多く撮影しています。リアリズム写真の写真家たちが、社会問題を告発するためにこどもを被写体とした一方で、石元の写すこどもたちは、写真家自身の内面を投影するかような内省的な雰囲気をまとっています。カメラは同じ目線に立つように低く構えられることが多く、ひとりの人間としての威厳すら伝わってくるようです。
50年代日本写真界における石元
重森:とにかく石元君が絶えず異質の風を注入したことで、日本の写真界がどれほど面白かったか。しかも彼はあくまで個人でしょう。しかも無視できない。そういう自己批判をするような強味を持っている写真家というのは、やはり貴重ですよ。
伊藤(知):あれがほんとの写真家だな。写真家の典型をあげれば、やはり石元泰博ですよ。彼は絶対に自分に対してきびしいし、ディスペレート(自暴自棄)の文字を持たない。自分の写真は、文章以上に自分のイメージである。写真に舌足らずは許さない。あの精神の緊張度の高さには、恐れ入るんですよ。
伊藤逸平、重森弘淹、伊藤知巳「座談会 59年のホープ4人男」『写真サロン』1959年1月号
05_シカゴ, シカゴ
1958年末、石元はさらなる飛躍を求め、千代田工学精工(現・コニカミノルタ)による援助を受けて再び渡米します。当時アメリカ国籍であり、翌年に迫った日本での在留資格切れ前に「帰国」しなければいけないという事情もありました。
学生時代を過ごしたシカゴで丸3年間写真漬けの日々を送った石元は、再開発でダイナミックに変容してゆくシカゴの街とそこに生きる人々を、日本のリアリズム写真やロバート・フランクといった同時代の表現にも触発されながら撮影しました。この間撮影されたカットは約6万にものぼったといいます。
『シカゴ,シカゴ』美術出版社 1969年
1958~61年のシカゴ滞在の成果は「石元泰博写真展 chicago chicago」(日本橋・白木屋、東京、1962年)や写真集 『シカゴ, シカゴ』(美術出版社、1969年)として結実しました。写真集には、シカゴでの学生時代の恩師ハリー・キャラハンに加え瀧口修造がテキストを寄せ、デザイナーの亀倉雄策がレイアウトをつとめました。膨大なカットから選び抜かれた210点が、活版の写真製版2色刷りによる力強いモノクロームによって掲載されています。
06_近代建築
石元は、丹下健三、磯崎新、白井晟一ら、錚々たる顔ぶれの建築写真を多数手掛けたことでも知られています。しかし、それらの写真は撮影後に各建築事務所や施工会社、出版社等へと手渡されたことで、今まで展覧会としてまとまって紹介される機会はほとんどありませんでした。
ここでは、当館蔵のプリントに加え、竹中工務店、磯崎新アトリエ、芦原義信アーカイブ(武蔵野美術大学美術館・図書館)所蔵のプリントや、建築雑誌等の資料により、日本の近現代建築を写した石元の建築写真家としての仕事を紹介します。
※本ページでは当館所蔵品のみご覧いただけます。
07_日本の産業
1964年に開催されたニューヨーク万博で、石元は日本館(設計:前川國男、会場構成:亀倉雄策)の壁画写真「日本の産業」を担当し、日本の高度経済成長を支えた日本各地の工場地帯を撮影しました。また一方で、日本の産業化や都市開発を批判的な視点で捉えた作品も残しています。
08_周縁から/歴史への遡行
東京を拠点とした石元は、60年代以降、地方取材にも精力的に取り組みました。独自の神仏習合文化が根付く大分県国東半島や、御陣所太鼓の伝わる石川県輪島、近代農法がいち早く導入された北海道十勝地方など、各地の民俗や風土、近代化の様相を写したシリーズを紹介します。
09_両界曼荼羅
1973年、石元は東寺の国宝・伝真言院曼荼羅を撮影します。絹本に緻密に描かれた諸仏の湛える生命感に「エロス」を見出し、また「不二(ふに/ふたつにあらず)」という仏教思想は、その後の石元の作品や人生観に多大な影響を及ぼしました。今回は、密教ブームの火付け役ともされる西武美術館での「石元泰博 写真 曼荼羅展」(1977年)出品作と同様の規格で制作された大型パネル(国立国際美術館蔵)を紹介します。
エロスと不二
「私は“伝真言院両界曼荼羅”を撮影し、その不思議な世界に引込まれた。なによりも宗教画であるそれに漂う、香ぐわしいエロティシズムに驚いた。更に私は“不二”と言う言葉を知った。非力な私にはその深遠な意味をつまびらかには出来ないが、世の中の、相対峙するかにみえる存在、理(開放)と智(統一)、極大と極小、正と負、これらを“二つにして、二つにあらず”とし、そこに宇宙の真理をみようとする考えは私を戦慄させた。何という肯定。私はふと、これまで私の求めて来た美は引き算の美ではなかったかと思い始めた。私は余分をぎりぎりまで除いて端正を求めた。しかし果して端正とは何物の附加をも許さぬほど狭量だろうか。第一何ものも付加することを許さぬ完璧な美、例えば真円や正四面体の中で、さまざまな煩悩を引きずって生きる人間が幸福だろうか。何かを加えようが取り去ろうが、依然として美しくあり続ける、そんな美しさもあるのではなかろうか。」
石元泰博「あとがき」『桂離宮―空間と形』岩波書店、1983年
10_イスラム 空間と文様
石元は、雑誌『太陽』での取材をきっかけにイスラムの建築と出会いました。デザイナーの田中一光の勧めにより、その後も中近東を訪れて撮影を重ね、最初の撮影から8年余りの歳月をかけて、400ページにも及ぶ大著『イスラム 空間と文様』にまとめ上げました。今回は、写真集掲載カットのポジフィルムを抜粋しご紹介します。
11_桂離宮 1981-82
石元は、昭和の大修復が行われた後の1981-82年にも再び桂離宮を撮影しています。襖の文様などの装飾的な要素が写し込まれ、空間的な広がりへも意識が向かうなど、最初の撮影よりも緩やかな視線が感じられます。その一方で、修復されたばかりの真新しい畳や障子の効果もあって、桂離宮のたたえる抽象性がより洗練されたかたちで写し取られているようにも見えます。
12_ポートレート
人を撮ることに苦手意識を持っていたという石元ですが、雑誌連載などの機会に同時代の著名人や芸術家らのポートレート撮影に挑んでいます。それぞれの強烈な個性を引き出しながら、石元独自の視点によって捉えられており、さながら石元と被写体の人物たちとの一騎打ちかのような迫力に満ちています。
横尾忠則のポートレート
石元撮影によるマスク姿のポートレートは、コロナ禍以降の横尾のトレードマークとなっています。横尾のイラストが描かれたマスクは、撮影に同行した編集者の嵐山光三郎の提案で、石元の妻・滋がその場で手縫いして作ったものだと言います。ポートレート写真は現場に居合わせた人々のコラボレーションによって生まれるということが伝わるエピソードです。
13_かたち
草花や工業製品、小さなおもちゃなどの「かたち」をストレートに写したシリーズは、被写体の構造や質感を的確につかむ石元らしさが端的にあらわれたシリーズといえます。四季の花々を植物学的な仕組みへの関心をもって写した「HANA」シリーズや、企業広告などで撮影したいわゆる「ブツ撮り」など、石元が捉えたいろいろなかたちを紹介します。
14_食物誌/包まれた食物
カラーで撮影された本シリーズでは、見慣れたはずのスーパーに並ぶ生鮮食品が、異様でグロテスクな存在感を放っています。高度経済成長以降の大量生産、大量消費による利便性の追求によって、食の多様性や安全性が失われてゆくなか、本当の豊かさとは何なのかを切実に問いかけるかのようです。
15_山の手線・29
撮影場所を山手線沿線周辺に絞った本シリーズは、8×10インチという大判フィルムで撮影されており、バブル景気に向かい激しく変貌する80年代東京の姿が、その肌理までも克明に写しとられています。8×10フィルムは圧倒的な解像度が最大の特徴で、一般的に建築写真や特別な記念撮影などで使用されます。一見何気なく切り取ったように見えるカットも、本体だけで約6kgにもなる大型カメラを担いで撮影されているというから驚きです。
16_東京 1980-2000年代
17_伊勢神宮
石元は、1993年に行われた第61回式年遷宮の際に、伊勢神宮を撮影するチャンスに恵まれました。本シリーズで石元は、神宮の関係者に「伊勢の撮影は石元さんで終わりにしたらいい」と言わしめるほど完璧に、白木のどっしりとした清々しい姿を捉えています。式年遷宮とは、一定の期間ごとに社殿を真新しく造営し、祭神の座を遷すというもので、伊勢神宮では20年ごとに約1300年にも渡って繰り返されてきました。この「常若(とこわか)」の思想にもとづく伊勢独特の時間感覚との出会いは、後の〈刻〉シリーズへと発展しました。
18_刻
撮影当時は「うつろい」とも称された本シリーズでは、路上で踏まれアスファルトにめり込んだ空き缶や落ち葉のほか、雲や雪、川面といった水の変態、そして動くままにブレた道行く人々の姿など、時とともにうつろい変わりゆくモチーフが捉えられています。「肉体や物質が消滅すると、小さな粒子となって螺旋を描きながら宇宙を未来へと上昇していく」と語っていた晩年の石元の死生観を投影した瞑想的なシリーズです。
19_シブヤ、シブヤ
齢80を超えてもなお新たな挑戦を続けた石元の姿勢を顕著に示すのが〈シブヤ、シブヤ〉です。被写体となったのはゼロ年代の若者の街・渋谷のスクランブル交差点を行き交う人々。本シリーズで捉えられているのは、当時プライバシー保護への意識が一般に高まっていったのも反映するかのように、もっぱら後ろ姿ばかり。しかし、身に着けられた柄物のテキスタイルや装飾的なバックプリントは、人物の表情以上に饒舌です。ファインダーを覗きこまない撮影手法による偶然性と、半世紀以上のキャリアで培われた確固たる構成力がせめぎあうスリリングなシリーズです。
20_多重露光
美しいモノクロームのプリントが代名詞の石元ですが、50年代から断続的にカラーフィルムの多重露光による表現にも取り組んでいました。抽象絵画を思わせる、色彩と形態が美しく響き合う画面は、コラージュやコンピュータによる合成は一切施されず、写真機の中で偶然性を取り入れながら生み出されました。50年代の実験的な習作から、石元が生涯で最後にシャッターを切ったという2008年の作品まで、半世紀に渡るゆるやかな連作を紹介します。
会場風景
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