[後半]トークイベント 「建築家内藤廣から見る石元泰博」レポート

(左より)影山千夏氏、内藤廣氏、里見和彦氏

トークイベント 「建築家内藤廣から見る石元泰博」 後半(パネルディスカッション)

登壇者:
内藤廣氏(建築家、東京大学名誉教授)
里見和彦氏(展示デザイナー、元高知県立牧野植物園教育普及課長)
パネルディスカッションゲスト:影山千夏氏(元石元泰博フォトセンター長代理)

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パネルディスカッション

―石元さんとの思い出

[天野圭悟(当館学芸員、石元泰博フォトセンター長代理)]
まず話のきっかけになればと思いまして、僕の方から石元さんについてちょっと投げかけたいと思います。内藤先生が最初に石元先生に電話をされたとき、30代だったと思うんですけれども、どんな気分で電話をされたんでしょうか。僕がたぶん30代だったら、石元先生に電話するってすごく勇気がいったなと思うんですけれども。

[内藤]
石元さんは偉い人とは知っていたけど、その頃はまだ若造だったので、石元泰博がどのくらいすごいかって認識もなかったんでしょうね。あったらかけなかったかもしれない。たまたま石元さんが怒りん坊で、困ったときに呼ばれる僕(笑)、みたいなそういう貸しみたいなものもあったので、思いきって電話をかけました。

[天野]
ありがとうございます。では里見さんにも一つ。石元さんは1999年に牧野富太郎記念館を撮影していて、そのときにお会いになったと思うんですけれども、どんな印象でしたか?

[里見]
僕は石元さんには2回会いました。1回目は海の博物館のときです。あれは3年半ぐらいかかって、やっぱりお金にもならないし、内藤さんばっかりが浮かび上がって、展示とか全然話題にのぼらないし、何だよ、とかちょっとふてくされていて。そのまままだ残工事があっていたときに、海でも行こう、海とか見てちょっと人生を考えようと思って、海を見て、海水浴をして。それで、海パンとTシャツ、ビーチサンダルで帰ったら、石元さんがいて、紹介していただきました。でも石元さんも、そのとき半ズボンみたいなのを穿いていたので、何か僕は、救われたなと思って。あいさつだけだったんですけれども。

二度目の牧野記念館のときは、さっきも言いましたが、展示館ができたときに、現場事務所でまだ残工事があったので、デッキにテーブルを出して、「サトちゃんカフェ」として勝手に占領して、見学で来た人にコーヒーとかを振る舞っていたんですけれども、ちょっと曇り空で小雨も降るような日に、内藤さんと内藤事務所の神林さん(当時の現場担当)と、あと石元さんと、奥様の滋子さんがおみえになって、コーヒーを振る舞いました。そのとき僕は、ビートルズの「ホワイトアルバム」をかけていたんですけれど、内藤さんに「何かクラシックとかないの」と言われたので、坂本龍一のピアノの「BTTB」というのが出たばっかりで、あれをしばらくかけました。その日は撮影はなくてロケハンだったので、ちょっと小雨模様のなかで石元さんと奥さんは見ていましたね。いろんな曲もかけましたけど、ちょっと雑談みたいな形で、農業高校のときはチンチン電車に乗って通ったよとか、そんな話をいろいろしました。確かにその日も屋根へするすると登っていって、見ていてああすごいなと思ったもんでした。あんまり大したエピソードがなくてすいません。

[天野]
十分楽しいエピソードだと思います。影山さんには、生前の石元さんのお話を少ししていただきたいなと思っているんですけれども。

[影山]
石元先生に初めて会ったという流れでいきますと、1998年に東京都の写真美術館で石元さんの展覧会が開催されていまして、そのときに当時の館長に連れられて行ったんですけれども、そのときにお目にかかって。(内藤さんは)とても怒りん坊とおっしゃっているんですけれど、とても優しい雰囲気の方でした。その後、2001年に当館で初めて回顧展(*13)を開催するにあたって、その前からいろいろとやりとりをさせていただきました。そのときに作品を選ぶというので東京のギャラリーのほうに行って、結構な数、1箱大体70枚ぐらい入っているものを100箱ぐらい見たと思います。見ている間、石元先生が横にいて、一緒に見てくださっているのかなと思っていたら、横で何か一緒にいる人と雑談をしているんですね。それが大体、世の中はどうなっているのかということでわーわー言っているので、私は一生懸命作品を選びたいのに、石元先生は別の話で何かいろいろ怒っているという、そういう感じのやりとりをしていました。

その後、2011年に桂と伊勢の展覧会(*14)を開催しまして、初日に内藤先生にも来ていただき、デザインジャーナリストの森山(明子)先生と、伊勢の撮影のときにお世話された矢野(憲一)さんという方と、それから石元先生とのトークショーを企画しました(*15)。ところが(石元さんは)ちょっと当日体調がすぐれないということで、すぐれなかったのかどうかは分からないんですけれども、その日はちょっと来られなくて、幻のトークイベントになりました。でも当日のことをすごく気にされていて。朝一番ですごく雨の降っていた日だったんですけれども、「初日、今日も雨だね。僕、いつも大事なときは雨なんだよね。」ということをお電話でおっしゃっていて。大体大雨が降るというのがジンクスみたいな感じなんですね。先生は2012年の2月に亡くなられたのでもう7年。でも今日はすごくいいお天気で、何か石元先生、あっちに行っちゃったんだなという感じで、しみじみ思っている今日なんですけれども。とても怒りん坊とはおっしゃるんですけれども、私はそんなに怒られたこともなく…。

[内藤]
あのね、おしなべて女性には優しい(笑)。

[影山]
よかったです。大体年に2、3回品川のお宅に午後行くと、テレビがついていて。今だと大相撲を見ている感じですね。おじいちゃんと孫みたいな感じでしばらくだべってから、いろいろちょっと写真の話をするみたいな、そういう感じでお付き合いをさせていただいていたという。はしょった説明ですけれども、優しくてよかったです。

[天野]
ありがとうございます。内藤先生は、先ほどしゃべり足りなかったことがあれば、この場で。

―石元の都市論

[内藤]
たぶん皆さんご存じだと思いますけれども、石元さんは生まれたところ(アメリカ)、から高知に戻ってきたところ、また渡米したところ、そして戦時中アメリカにいる日本人の抑留の話とか、抑留されている中で写真に出会ったとか、戦後はまた「ファミリー・オブ・マン」(*16)でやってきて、という。石元さんの人生をたどると、戦前、戦中、戦後から今に至るまでがずっと見えるような、“覗き穴”みたいな人なんですよ。石元さんの作品の素晴らしさももちろんあるんですけれども、ちょっと違ったところから見ると、すごく面白いです。

確か昔、山手線から写真を撮っていましたよね。東京の山手線に乗って、山手線から見える風景をずっと、誰からも頼まれないのにぐるぐる回って撮っていた(*17)。それは何かたぶん、焼け跡から立ち直ってくる日本をずっと撮っていて、その在り方に対して腹を立てていたし、東京はこんなになっちゃって、みたいな感触があったんでしょうね。石元さんが考えていた日本と違う日本になっていくことに対するかなり激しい憤りがあったはずです。だからこそ、桂とか伊勢神宮とかに対する、その反対側に対する思い入れが人一倍あったと見ることもできます。何かそういうのが裏返しに出てきますので、石元写真の見方って、いろんな角度で見ることができて非常にスケールが大きい。単なる写真家ではない、というところを知っていただけたらなと思います。

[影山]
今おっしゃっていた話から言うと、石元先生が建築写真家という言われ方もされるけれども、本当にたくさんの幅広い撮影をしていらっしゃって。最初に石元先生のことを聞いたときは、“厳粛な”とか“静寂の”という、厳格な構成的な写真家という感じのイメージを聞いていたんですけれども、実際作品を見ると、もっといろんな時代感とか日々の政治のこととかいろんなことがあります。さまざまな時代背景を常に自分で見つめながら、それを消化して撮影していて。ぱっと見、ちょっときれい過ぎて分かりづらかったりするところもあるんですけれど、いろんなヒントを写し込まれている方だというふうな印象を受けたんですね。

建築の写真はたくさんあるんですけれども、結構建築途中の写真とか開発中の写真とかがあって。何か開発に対してあんまりいい思いを持っていらっしゃらないのかしらとか思って、ちょっと聞いてみたことはあったんですけれども、はぐらかされたのかどうか、出来上がったものは撮れるけれども、途中のものというのは撮れないので、だから撮っているんです、みたいなことをおっしゃっていました。もしかしたら、開発ということについて何かもう少し思いがあったのかな、ということはちょっと聞き出せなかったんですけれども、何かお話はされましたでしょうか。

[内藤]
日本の社会の流れというのが、石元さんの考えていた建築の在り方と違っていたんだろうと思うんですね。建築とか開発とかというのが、その勢いとか在り方も含めて。マンションがにょきにょきできたり。今東京は、石元さんが腹を立てていたとき以上に建物が立ち上がってきていますけれども、石元さんが生きていたらどんな怒りをぶつけたかなと思います。石元さんは、やっぱりもっと地面に近いところでの人間の暮らしを、いわゆる消費社会ではないものを良しとしていたのではないかなと。消費社会の流れの中で建物がどんどん建ったり再開発がされたり、それに乗せられて建っていくような建物に関しては、いい印象を持っていなかったというふうに思います。

―“黒い黒” 白黒写真と建築の関係

[里見]
さっきもちょっと話しましたが、僕は内藤さんから「建築の本質は写真には写らないんだよ」とよく聞いたんですね。でもその中で、石元さんなら、というのはあったんでしょうか。自分のあれだけ苦労したものを資料として残すときに、石元さんだ、この人だと思う決め手というのは、どういうところなんですか。

[内藤]
これはどこでもしゃべったことはないんですけれども、昔、石元さんが撮ったと思われる、僕の師匠の一人である菊竹清訓さんの戸塚のアパートの夕暮れの写真かな。ほとんど真っ黒なんですよね。夕方の景色なんです。そこにアパートの明かりがついている。手前には田んぼがあって、でもほとんど真っ黒なんですよね。画面の中のたぶん半分ぐらいが真っ黒。石元さんの“黒い黒”に惹かれて。それは日本の建築が失ってきた闇でもあるし、日本の建築メディアがカラー写真になってどんどん失ってきたものでもあるし。僕は、何かやっぱり、海の博物館の収蔵物はそういうもんだと思っていたんでしょうね。社会の影みたいなものかな。それを石元さんに撮ってもらいたいと思ったんです。石元さんが、「いや、カラーも押さえておいたほうがいいんじゃないの。」とかと言うので、先生に「カラーは駄目」と僕がはっきり言ったんです、あの巨匠に。石元さんは実はその頃、割と白黒を撮らなくなっていたんです。世の中の写真家も白黒写真を撮らなくなっていたんですね。メディアがみんなカラー写真を要求するんですね。ただ、カラーだと写真家が最終的に関わらないですよね。ラボに入っちゃうから。

[天野]
印画とかプリントができないですね。

[内藤]
白黒は全て写真家のコントロールでいこうと思えばいけるので。「ちょっと申し訳ないけれども石元さん、どうしても白黒でやってほしい。」と、はっきり理由も言いました。そういうことがありました。僕はカラーで撮ってほしくなかったんです。だから最後までお願いをしました。これは僕が言ったらちょっとおかしいかもしれないけれども、石元さんも、白黒にもう一回ちょっと戻りかけていた。桂のカラー版を撮ったときに、カラー版も素晴らしいんだけれども、やっぱり比較してみると、白黒の桂のほうが僕は好きで。かなり深いお付き合いもさせていただいたので、石元さんが白黒にもう一度気持ちが戻っていくことに、多少は加担しているかなという気がします。

[里見]
内藤さんは、昔から着るものは白と黒だけなんです。最近はちょっと違いますが、本当に何か、ちひろ美術館の方もそうおっしゃっていましたが、内藤さんは黒しか着ない人なんだなあって。そう言えば僕、海の博物館のときも、黒以外の服を着ているときを覚えていないです。

[内藤]
石元さんの白黒という話ですが、実は同じようなことを建築のメディアの人にも雑誌媒体の人にももう何回も言ってきているんです。白黒写真を失ってから、日本の建築はちょっとおかしくなったような気がします。それは空間を表現できるかどうか。建築の空間、スペースというのは、やっぱり白黒でしか表現できないんですよ。カラーだとできない。ところが、今度インターネットの時代になって、ますますそっちの方にいっていますよね。僕は白黒写真の文化というのを、もう一回取り戻したほうがいいような気がします。ただ問題があって。石元さんから一度だけ言われたことがあるんだけど、印画紙もフィルムも、黒ができないんだよね。確か環境問題か何かで、コダックが黒の印画紙をつくれない。要するに、石元さんが黒を表現していた頃の印画紙というのがなくなってしまっているというふうに聞いていたので、その問題はあるかもしれない。ただ、一度石元さんに、誰の話をしたかは忘れましたけれども、アメリカの写真家で白黒の印画紙から自分で作っているという話も聞いたことがあるんですね。それでないと表現できないから。そのような話も聞いたことがあります。

[里見]
僕は内藤さんの写真集で(石元さんの作品を)ずっと見ていて、(今回の展示を観るのは)今日が2回目ですが、石元さんが自ら焼いたプリントを見て、ちょっと違うなと思いました。グレー、黒といっても黒から白に至る段階、グレースケールというのが本当にきちんと出ていて。やっぱりそれは印刷という工程をやると、やっぱりベタに近づいていくんですね。ぜひこの後に見られる人は、それも見て、本当に白黒の美しいフォルムを見ていただきたいなと思います。

―質疑応答

[質問者A]
牧野記念館を建てられるときに設計が極端に変わったというお話がありましたが、最初の牧野記念館というのは、いわゆる普通の形だったんでしょうか。その原型がどういうのからスタートして今の形になった、というところをお聞きしたいです。

[内藤]
ちょうどその頃、安曇野のちひろ美術館も設計をしていて。切妻の連続屋根みたいなのを考えていた時期です。その切妻の連続屋根が一番建物のボリュームを小さく見せる方法だと思っていたので、最初はそれで考えていたんですね。実は知事にも1回それで説明をしているんですよ。橋本(大二郎)さんだったんですけれども、橋本さんにそれを見せたりして、「いいでしょう。」みたいなことを言っていたんですけれども、それを自らぶっ壊したんですね。連続した切り妻屋根の案でもできたんですけれども、何か牧野さんに迫れないような気がしたんです。牧野さんのさっきのヒガンバナとかヤマユリとか(の植物画)ありましたけれども、牧野さんの自然に肉薄するあの感じというのは、何か要領よくさばいたというのと違う、何かもっと肉薄しなきゃいけないような気がして。それで、細かく分節するんじゃなくて、全部一体で包み込むみたいな形の屋根のほうがいいんじゃないかと。それも別に僕が考えたうねうねじゃなくて、その土地と平面の幅と、そういうのを幾何学的に割り出して作る。自分の、僕の形じゃないんです。平面から出ると、自然にあの形になるようになっているんですね。それでやろうというふうに決めました。そのほうが牧野さんの精神にかなっているというふうに直感的に思ったので、そこに踏み込んだという記憶があります。

[質問者B]
白黒写真が衰退している経緯というのは、大衆の主流がカラーに移って、白黒にこだわっていたら会社がつぶれるとかいう、そんな問題から白黒写真が衰退しているんですか。

[内藤]
もちろん僕が知っている多くは建築写真ですけれども、カラーにどんどん変わっていくのは、一つはテレビが白黒からカラーに変わり、それから世の中で目にする商品広告がどんどんカラーになっていって、ということに引きずられているんじゃないかと思います。それは、こういう商品の姿を伝えるのにはカラーのほうが良いと思うんですね。白黒は、どちらかと言うと、質感だとか、奥行きだとか、肌触りだとか、そういうものが中心になる。白黒は、いわゆる消費社会に合わない。だから何となく排除されたんじゃないかな。
一方で今、雑誌の媒体のほうも変わってしまった。僕は完全に詳しくはないですけれども、さっき説明した自費出版の写真集をやるときも、石元さんなんかと話をしたんですけれども、あれは実は2色なんですね。本当は4色で刷って白黒でやりたかったんですけれども、お金がなくて2色刷りなんです。皆さん、白黒写真で2色刷りなんていっても分からないですよね。この中で分かる人はすごく少ないと思うんです。僕が聞いているのは、例えば昔は大日本印刷のいわゆる刷りのところに熟練工がいて、それでその墨の色みたいなのを、輪転機を回すのを見ながら足したり引いたりしながら、白黒のクオリティーを保っていた、という話も聞いたことがあります。そういう熟練工も、それこそ本当にそんなことをやっていたら飯が食えないのでいなくなる。さらに今度はデジタルの話が入ってきて、デジタルでやれる範囲というのも結構広がったんだけれども、でも最終的には、深さは出ないんですね。それはクラシックのレコードがCDに変わったときに、実は音域が狭まっているということを一般の人があまり知らないというのと同じで、写真でも同じことが起きているんだろうと思います。

ただ僕は、もう一回復活させたほうがいいと思うんですね。大切なものを表現する回路をわれわれの文化の中で残しておいたほうがいいと思っています。それは石元泰博の写真をもう一回まざまざと見る。それから出版されたものをよく見てみる。60年代の(『桂』の)ハーバート・バイヤー版の中に表現されたもの、亀倉雄策版の中に表現されたもの、オリジナル写真、そういうのを見ていくと、われわれが失ってきたものが、全部見えてくるという気がします。カラーだとそれが分かりにくいんじゃないかなと思っているので申し上げました。

[質問者C]
海の博物館が最後の仕事だと思って、石元さんに写真を撮ってもらいましたが、それが最後の仕事にならなかった。その辺の経緯やエピソードを教えてください。

[内藤]
海の博物館は本当に大変な仕事だったんです。というのも当時は、里見さんもさっき言っていましたけれども、バブルの真っ最中でした。設計が始まったのが1985年で、終わったのが92年なんですね。ということは、ちょうど日本のバブルの真っ最中で。バブルの真っ最中ではどうだったかと言うと、東京で建築家が集まると自慢話。みんな外車で乗り付けてきて、俺は坪単価250万をやっているよとか、俺のところは坪単価300万の建物を設計しているとかという自慢話をする。鼻持ちならないすごくいやらしい話です。そのときに海の博物館の収蔵庫は、坪42万ですからね。そういういわゆる極貧プロジェクトだったんです。まあ事務所はつぶれそうになりました。ただ、これは運命なんですけれども、博物館が終わった頃、ちょうどバブルが壊れたんですね。バブルが壊れてみると、ああいう作り方もあったんだということに気付いた人が何人かいて、全く予想していなかったですけれども、たくさん賞をいただいて。世の中的にも注目をされて、それで幾つか仕事をいただくようになって、ようやくつぶれないで今に至っている、という事情です。

(石元さんに頼むのが最後にならなかった理由の)一つは、2回目に頼んだのは安曇野のちひろ美術館ですけれども、やっぱり怖かったです。もう一回撮ってもらえるかなと。基本的に石元さんは嫌だったら撮らないですから、それは厳しいですよね。撮る価値がないと思ったら撮らないので。こんなですと言って、じゃあまあちょっとやってみるか、みたいな話になって、(海の博物館の後は)3つやっていただきましたけれども、毎回怖い思いをしていました。今回は断られるかな、というふうに思いながら頼みに行っていました。

[里見]
石元さんが図面を読み込むと言っていましたが、石元さんに頼むときに内藤さんは、ここのアングル、これを撮ってほしいというお願いはあるんですか。全てアングルは石元さんに頼むんですか。

[内藤]
一切言いません。それはやっぱり写真もクリエイションで、クリエイターに僕が何か言うというのは失礼なことだと思っているので、本当に一度も言ったことはない。石元さんからは文句を言われます。君の建物は本当に撮りにくいと。これは何回も言われました。どうしてかと言うと、僕の建物は写真に撮られることを意識していなからです。牧野もそうですけれども、空間が外に抜けているんですね。あれは建築写真としては、非常に難しい。どこかにフォーカスを作ったり露出を合わせたりすると、その向こうの方に外が写っていたりすると、うまくいかないわけですね。「撮りにくい、撮りにくい」と言いながら、撮っていました。あともう一つ。非常に困ったことがありました。安曇野ちひろ美術館を撮ったときに、「内藤くん、あの電線は何とかならないかね」と(笑)。それで「さすがに先生、それはちょっと。」と。電線に対してものすごく怒っていました。

[影山]
海の博物館で内藤事務所がつぶれなくて本当によかったなと。牧野につながり高知駅につながりということで、本当によかったなと思っています。内藤先生の作品を石元先生が引き続き撮ってくださっていたのもよかったなと思っています。建築が素晴らしくて面白かったからだと思うんですけれども、でもやっぱり内藤さんのことも大好きだったんじゃないかなと思っていまして。「桂、伊勢」の展覧会の最終日に、やっぱりお礼に来なきゃというので、すごい義理堅い方で、石元先生が最後に東京から高知に来てくださって、お話ししたときに「内藤さんともいろんな話をしたけれども、音楽の話をしていなかったな。」と。翌年の2月に亡くなったんですが、それが12月でした。どんなお話をされたかったのかな、とも思ったりしています。音楽の話をしそびれたそうです。だからそんなことをおっしゃっていたのを、今思い出しました。

[内藤]
そうだなぁ。しなかったなぁ、音楽の話。

[天野]
ありがとうございます。お時間が来てしまいました。すごく短い時間でしたが、お三方に一度皆さんで拍手をして終わりにしたいと思います。ありがとうございました。