[前半]トークイベント 「建築家内藤廣から見る石元泰博」レポート
トークイベント 「建築家内藤廣から見る石元泰博」 前半
登壇者:
内藤廣氏(建築家、東京大学名誉教授) 「建築家 内藤廣から見た石元泰博」
里見和彦氏(展示デザイナー、元高知県立牧野植物園教育普及課長) 「草木の中の建築と展示」
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[藤田直義(当館館長)]
皆さんこんにちは。館長の藤田と申します。本日はトークイベント「建築家内藤廣から見る石元泰博」にお越しくださいましてありがとうございます。
内藤先生は申し上げるまでもなく、日本を代表する建築家です。鳥羽市立海の博物館、それから高知県立牧野植物園の牧野富太郎記念館、最近では富山県美術館など、数多くの優れた建築物の設計をしておられます。身近なところでは、高知駅も内藤先生の設計でございます。現在当館では、「石元泰博フォトセンター」という活動をしておりますけれども、この設立をしたのが2013年6月。それから2階にあります「石元泰博展示室」のオープンは2014年10月でございます。それに先立ちまして2012年から「石元泰博写真作品等利活用検討専門家委員会」を東京と高知で開催しておりまして、内藤先生もその委員の1人として貴重なご意見をいただいて参りました。本日はお忙しいところ本当にありがとうございます。
内藤先生の後に登壇される里見和彦さんは、2017年まで牧野植物園で展示のデザイナーをしておられ、教育普及課長としても長年活躍をされました。現在はフリーで仕事をされておりますが、内藤さんと長い付き合いがあったというのは、高知新聞での連載(*1)で私も初めて知った次第です。
最後に、パネルディスカッションに登壇される影山千夏さんは、長年当館の学芸員として勤務をされました。現在はフリーですが、石元先生からの作品寄贈のきっかけを作り、それから石元泰博フォトセンターの基礎を築いてくださった方でございます。1時間半と短い間ではございますけれども、最後までごゆっくりお楽しみください。
内藤廣「建築家 内藤廣から見た石元泰博」
[内藤]
内藤です。20分ぐらいですよね。20分で石元泰博を語るということは…無理です。無理ですけれども、思い付くままに、僕と石元さんの関わりを話させていただいて、その後に何枚か気になった写真をお見せします。その後、ディスカッションがありますので、足らないところはそちらでしゃべろうと思います。
―石元泰博との出会い
[内藤]
確かではないんですけれども、おそらく石元さんと出会ったのは1980年代中頃。当時はまだバブル経済の真っ最中、セゾングループ、西武という百貨店グループが、文化活動に一番アクティブな頃でした。展覧会のオープニングなどのパーティーがあったりすると、私もセゾンと関わっていましたので行くのですが、文化人がたくさんいるわけですね。今日この会場にいらっしゃるよりも倍ぐらいの人が集まっています。派手な場でしたね。建築家もいて、それからアーティストもいて、グラフィックデザイナーもいてというようなパーティーです。あまりそういう場が得意ではないので、すみっこでボーッとしていると、どういうわけか僕のところに人が呼びに来るんですよ。「何か石元さんがまた怒っているみたいだけど、内藤さん何とかしてくれない」みたいな注文です。
噂では“怒りん坊の石元泰博”というので有名でした。何かに腹が立ち始めると納得するまで納まらない。これ、高知県人気質ですかね(笑)。いったん始まると、いくところまでいくみたいです。それでどういうわけか、僕はそういうときのあてがい役でした。それで行くと、石元さんがブンブンに怒っているわけですね。「一体どうなっちゃっているの」というのが石元さんの口癖で、怒りの矛先はいろいろありました。そのときの文化の在り方だとか政治の在り方、それから特に建築とか都市に対してふつふつとした怒りがあった。それが何か建築家の発言や建築家の作品に接すると、それをきっかけに吹き出すみたいで、「どうなっているんだ」ということで怒っているわけですね。
そのときに一度「石元さんが建築と言っているのは、たぶん100年にいっぺん出るか出ないかというもので、そんなものはめったに出てくるものじゃないから、いちいち腹を立てていたら命がもたないですよ」みたいな話をすると、「そうか」と言って収まるというようなことがあって、お付き合いが始まりました。
―「海の博物館」の撮影
[内藤]
ちょうどそのころ、先ほどご紹介がありましたように、海の博物館という非常に貧乏な私立の博物館を三重県鳥羽市に作っていました。本当に命からがら出来上がった博物館で、今日この後で登壇される里見和彦さんと一緒にやりました。世の中はバブル経済、なにもかも値段が高騰するなかで、超ローコストの建物を作っていたのです。その頃うちの事務所もほとんどつぶれそうで、博物館の設計と現場の監理監でほとんどお金を使い果たしていて、もうこれでお終いかな、という状況でした。どうせお終いなら、最後にちょっと苦労した記録ぐらい残そうと思いました。石元さんに(撮影を)頼みに行くかと思い立って、頼みに行ったんです。
その頃石元さんは、もう建築界は誰も怖くて寄り付けないような大きな存在でした。でもまあ怖いもの知らずで頼もうと思いました。まず最初に電話をかけると、石元さんが出てきました。「もう最近は建築、撮ってないんだよね」とかと言って、もう建築にうんざりしていたみたいな感じでした。そうしたら、後ろから奥様の滋子さんが、奥様とも懇意にさせていただいていたのですが、「ヤス、撮ってあげなさいよ」と一言、それが電話の向こうで聞こえました。それでお目にかかって、撮っていただくことになりました。
撮影に入ると本当に鬼のような人で、素晴らしかったです。ものすごく勉強になった。それは建物というと、例えばこういう。(ペットボトルを持ち上げて)これが平面だとすると、普通カメラというのは、こうやって(端から順に)撮っていきますよね。ここを撮ったら、ここを撮って、ここを撮って。全然そうじゃないんですよ。ここを撮って、次はこっちを撮ったり。次はここを撮るのかと思ったら、こっち側を撮ったり。大体撮影が3日ぐらいですけれども、1日をほとんど秒単位で割って動いていく。一体この人の頭はどうなっているんだろうと思いました。つまり、なぜそんなことが可能かというと、事前に図面を読み込んで、そこにどういう光が来るかということが頭の中に全部あって、その光を撮りたいということが全部頭の中に組み立っていて、その光を撮るためにポジションを動いているんですね。ちょっと尋常ではないと思いました。今でいうと、すごくデジタルな頭の構造をしている人です。すごいなと思いました。もう朝から晩まで。「先生、昼飯は何がいいですか」と言ったら、「いや、僕、昼飯いらない」、「飲み物は何がいいですか」と言ったら、「コーラ」とかと言ったりするんですよ(笑)。昼の時間も惜しんで撮って、ようやく夜になってゆっくりするという感じでした。
石元先生に撮っていただいて、本当にいろんな勉強をさせていただきました。海の博物館はまだ地方の無名の博物館でしたから、当然のことながらどこの出版社も興味を持ってくれなかった。僕が本当に最後のお金をはたいて自費出版をして出したのが、海の博物館の写真集です。(*2)
エピソードをもう一つ申し上げると、焼きが終わったので高輪のマンションまで(写真を)取りに来て、と言われて伺った時のことです。30分ぐらい早めに着いたんです。居間に通されたら、机の上に焼いた紙(写真のプリント)が確か5センチほど積み上がっていて、それを破いているんですよ。分かります?要するに、気に入らないものをみんな破いていくんですね。それで、「いや先生、それ、破んないでください。」と言うと「いや、これは焼きが悪いから破いているんだ。」と。でも「お願いですからそれは僕の勉強のためにとっておいてくれませんか」と言って、いただいたものもあります。そのぐらいやっぱり厳しい方でした。
それから編集。写真集を何度か作らせていただだきましたが、大体ポッと(写真を)渡されるんですよね。「切ってもいいよ」と言って。切ってもいいよというのは、要するに使うところをカットしてもいいよということですが、でも、ほとんど切れないです。1ミリも切れないんです。そのネガとかをいろいろ見ると、レンズをのぞいて撮ったときにすごく厳しい目で画角を選んで、なおかつまた焼くときにもう一回やってと、何回もやっていますから、その切ってもいいよと言って渡される写真が1ミリも切れない厳密さをもっている。そういう種類の写真でした。
―「牧野富太郎記念館」撮影秘話
[内藤]
上の4冊が私が自費出版で出したもの。それから、石元さんが亡くなって、それらを1冊にまとめたいというふうにして出版したのが、下の四角い本です。これはたぶんインターネットでまだ買えると思いますけれども、出版社を通して作ったものです。これは牧野ですね。(*3)皆さん見てお分かりのように、まだ中庭から竹がしょぼしょぼ。今はもう密林のように立ち上がっていますけれども、出来上がったばかりの頃の写真です。
お手元のパンフレットにある中庭を上から見ている写真は、記憶に残っている写真です。(*4)撮影をしていたとき、石元さんが屋根に登りたいと言うんですよ。「そんな先生、転げ落ちると大変なことになるから」と言っても、言い出したら聞かないんです。それで、とことこ登っていってしまう。それも写真機と三脚の重いのを自分で肩に担いで。実は牧野の屋根って登ると難しい屋根なんです。場所によって勾配が右左で違うんですね。それで、先生が足を踏み外したらどうしようかと思って、うちの事務所のスタッフとそれから現場の人が、万が一コケて転げ落ちてきたときに受け止める用意をしました。この上から撮影した画角の外には、「石元泰博受け止め係」(笑)の人間が何人もいるという、そういう撮影でした。
―石元泰博の「桂離宮」
[内藤]
桂の写真集は、60年前にグロピウス版/バイヤー版というのがあって、それから亀倉版というのがあって、何冊も出ています。60年代のは序文をグロピウスが書いて、亀倉版では丹下さんが書いて、80年代には磯崎新さんが書いて、という経緯があります。たいへんな人たちが序文を書いています。これ(『桂離宮』六耀社、2010年)のときに、書いてほしいと言われたので、おそるおそる僕が書きました。(*5)
白黒版の昔の桂ですけれども、僕が一番好きなやつを1枚(*6)。僕はこれが一番石元泰博がよく分かると思っています。御湯殿の上がり場というんですかね。お風呂に入った上がり場のところですね。この正面の壁を見てください。これ、正方形ですよね。正方形を真正面からきれいに撮っている。伝統、幾何学、普遍性、そしてこの壁の光り方が実に素晴らしい。僕はこの写真が一番好きです。桂の中に幾何学形を見いだし、それが石元さんのバックグラウンドであるモダンな空間思考とこの写真の中で、ピタッと一致している。
それと、これは立った位置から撮っています。和室の撮り方というのはいろいろあるんですけれども、これが同じ建築写真家の二川幸夫さんなんかだと、少し下げて畳に座ったレベルぐらいのカメラ位置で撮ります。それから映画の小津安二郎監督だと、もっと低いですよね。ちゃぶ台の高さぐらいまで下げる。石元さんは三脚を立てて、ほぼ立った目線の位置から撮ります。
次の写真が最後です。(*7)これ以外にも実は何枚もあるんですけれども、皆さん、これを普通に見ちゃいますよね。だけどこれ、よく見てください。変なことが起きているんですよ。画面でいうと、障子が正面に構えていますよね。で、欄間は真ん中にあります。これは実は45センチずれているんですけれども、奥はこっち(障子の真ん中)です。石元泰博はどこに立ってこのカメラを構えているのかということですね。どこに立っているんでしょう?これで言うと、この辺り(画面中央左寄り)に立っているんですね。それをシフトレンズでずらして、この画面を成立させている。石元さんはよくシフトレンズを使うので、ほかの写真でもあります。だから石元泰博の写真を見るときに1回ちょっと興味本位で「石元泰博がどこに立って撮っているか」というのを見てほしいんです。われわれは、こういう写真があるとこの真ん中に立っているというふうに見ちゃいますけれども、意外と石元さんはかなりシフトしている場合があります。
これに関しては、石元さんがシカゴで学校に通っていたときに、シカゴのレイク・ショア・ドライブという、ミース・ファン・デル・ローエという人が建てた超高層を写して、シフトレンズの練習をした、と僕はじかに聞いています。たぶん建築写真を撮るときにシフトレンズをどう使いこなすかということが、石元さんの中でかなり大切な技法の話だったのではないかと思っています。
僕らが何気なく普通に見ている写真も、石元さんがどの立ち位置で撮ったか。さっきも言ったように、これは目線が高いですよね。ほかの写真家だと違う高さです。石元さんは常に、人が和室で立った状態で撮っていることが多くて、なおかつシフトレンズを使って画面を構成している。これがとても面白いところなので、皆さんもその目で展示されているものを見ていただくと面白いと思います。
僕はまだ若手の建築家のときに、向こう見ずに石元さんのところに頼みに上がって撮ってもらいましたけれども、本当に勉強になりました。ちゃんとしたものができたら石元さんに撮ってもらおうと思って作ってきましたが、やっぱり怖い。あの怖い目にさらされるのか、ということを頭に思い浮かべながら建築を設計してきました。その意味では、建築家として石元さんに育ててもらった部分がかなりあるというふうに思っています。残りの話は後でということで。
里見和彦「草木の中の建築と展示」
[里見]
皆さん、こんにちは。里見デザイン室の里見和彦と申します。石元さんの写真展の関連イベントで、磯崎新、内藤廣ということなので、本来なら僕みたいなのじゃなくて、磯崎さんが来て内藤さんと一緒に話をしたらものすごく面白いだろうなと思うんですけれども、この無名のデザイナーが来まして本当にすいません。僕は写真の専門家でも建築の専門家でもありませんので、内藤廣さんの考える建築というのを僕が体験した話をしまして、これから今、展示してある石元さんの写真を見るときの何かのヒントになればいいなと思いまして、20分話させていただきます。よろしくお願いします。
―建築家 内藤廣との出会い
[里見]
私は高知で生まれまして、高校を卒業後、東京へ行きました。展示デザインの会社を友達と始めて、ずっといろんな日本中の、地方が多かったですけれども、博物館の展示のデザインをやっておりました。内藤さんと初めてお会いしたのが昭和63年の暮れで、昭和最後の年末でした。今、話がありました海の博物館の設計がもう始まっていて、内藤さんはすでに4年間ぐらい収蔵庫を設計していまして、素晴らしい収蔵庫が建築工事に入っている頃でした。
さあこれから展示館を作るんだけどということで、海の博物館の石原館長という、ものすごい強烈なキャラクターなんですけれども、すごくいろんなデザイナーとかをあたってプランとかを出させたんだけど、どれもこれも駄目だと。こういうもんじゃないんだということで、いろいろ東京で探していたらしくて、それが回り回って僕のところに来まして、63年の暮れに面接に行ったんです。石原館長と内藤さんと、内藤さんのところの建築の人がいました。暗い部屋で何かもうその3人に迫られるような感じで。「おまえ、本当にやる気あるんだろうな」みたいな感じで攻められました。
僕もそんなにたくさん仕事もあるわけじゃないし、それまで3つぐらいの博物館をやったことがあったんですけれども、ミツカン酢の博物館を愛知県の知多半田に作ったときの資料みたいなものを見せて。内藤さんはパラパラと見ていました。それで石原館長は、じゃあこれ、鳥羽に持って帰るからと言っておられて。年が明けて1月8日に平成という時代になりまして、それから1週間後の日曜日だったんですけれども、僕の自宅に電話がかかってきました。「やっぱり君に任せることにしたから、すぐ鳥羽へ来てくれ」と言われました。1週間ぐらい鳥羽の景観とか内藤さんの収蔵庫とかを見て、それから始めました。
3年半かかって、3年間ずっといろんなプランを出したんですが、全部却下されました。こんなにデザイン料が少ないのに、これだけ振り回されて却下されるとはどういうことだと思ったんですけれども、民俗学的な話とか、どうやって魚を獲るかという生態的な話とか、とにかく僕の好きなテーマだったので、何とか自分なりにできないかなと思って3年半やりました。
その仕事が始まるときに、デザイン料とかは少ないんだけれども、一番最初にまずは(他の)博物館を見に行こうということで、館長と館長のお嬢さんと内藤さんと僕とで、アメリカを1週間か9日間ぐらい旅をしました。8日間ぐらいで28館をばーっと見て。1日3.5館見て。みんなが見たいところを僕が聞いて、ツアーコンダクターみたいな感じで時間の配分とかをして、ずっと見ていきました。僕は内藤さんとは初めてだし、どういう人かも知らないんですけれども、内藤さんと同じ部屋だったので、毎晩部屋でいろんな話をしてくれました。建築の話とか美術の話もしました。時には「どうして人は死ぬんだろうね」みたいな話もしました。僕は内藤さんが寝てから全部話したことをメモしましたので、全部すごく覚えているんです。
好きな建築家はいませんかと聞いたときに、内藤さんは「僕はルイス・カーンが大好きなんだ」と言っていました。ルイス・カーンはご存じでしょうか。アメリカの現代建築の巨匠なんですけれども、僕は失礼ながら知らなかったんですが、「アメリカの数々の素晴らしい現代建築という果実を袋に詰めて、ギュッと絞り込んで出たジュース、その最後の最後の一滴の宝石のような建築がルイス・カーンの建物なんだ」とゆっくり言葉を考えながらおっしゃっていて、ああそうかと思って。その旅の途中で、ボストンの郊外にルイス・カーンの建物がありました。フィリップ・エクセター・アカデミーという高校の図書館なんですけれども、小雨の降る日にそこへ行って見ましたら、休館日だったんですけれども、窓から中は見えました。外は本当にサイコロのような煉瓦でできたキューブの塊のようなものなんです。僕は、そんなに長い時間いなかったんですけれども、見ていたら面白いなと思いました。
今日、磯崎新さんのつくばセンタービルの写真とかを見ると、正方形があって、本当に定規で書いたみたいなグリッドが規則正しく並んでいますけれども、ルイス・カーンのその建物は、同じキューブなんだけど、5階建てぐらいなので、窓が1階、2階、3階、4階、5階まであって。横に7列か8列かあったんです。その窓を見ていると、1階の窓から2階の窓…5階の窓へ行くに従って、窓の幅が広くなっていて、窓と窓の間に通っているのが、だんだん上に行くほど狭くなっているんです。よくよく見ていたら、すごく面白い。見た感じでわっと遠近感もあるし。でもぱっと見たら、ただのサイコロみたいな感じなんです。
それから僕も家に帰って図書館とかでいろいろ見て、内藤さんとの仕事もやって、本当になるほどと思ったのは、ルイス・カーンの建築は写真にその良さがあんまり写らないということです。実は、内藤さんの仕事もそうなんです。石元さんの写真の関連イベントで本当に申し訳ないんですけれども、内藤さんの建築は、本当にそこの場に行って感じたときにその良さが分かる。例えばいろんなカルチャー雑誌とかでいろんな建築の写真やグラフィカルなのが出ていますけれども、そういう流通に乗るというか、人気が出るような建築というのは、僕の個人的な考え方なんですけれども、行ってみたらその写真を確認するだけで帰ってしまうことが多いんです。内藤さんの良さは、写真に写らない。そういうところがルイス・カーンと同じだなと思いました。
海の博物館の仕事をしているときに幾つもエピソードがありますが、内藤さんに言われたことで一つだけ。僕は図面を書いて机とかいろんな設計をするとき、大工さんに「この色で塗ってくれ」というのを書き込みます。色指定というんですけれども、「里見さんは色指定をどうやっているの」と聞かれたので、「このDICという色見本とかがあって、日本塗料工業会の何番と図面に書いて指示しています」と。普通そうするんですけれども、内藤さんは「でも里見さんが本当にこの色にしたいというのがあったら図面に、奈良の室生寺の本堂の西側の釣り鐘の緑青のその緑でやってくれ、と書いてくれてもいいんだよ。」と言ってくれたんです。そのとき僕も自己流で誰に教わったわけでもないんですけれども、いろんな仕事をしていく中で、当たり前と考えてデザインでやっていたところがあったのを、内藤さんの言葉でかなり目の前が開けたというか。そうだよな、大工さんなり塗料屋さんが、塗る人が分かってくれたら、そんな何も番号で書くことはないんだよな、ということを言われたのを思い出しました。
―「牧野富太郎記念館」誕生秘話
[里見]
牧野富太郎記念館をどうして内藤さんが設計するに至ったかというのを、僕が知っていることだけお話しします。1992年に海の博物館を内藤さんとご一緒してやった、その夏でした。その年の年末に、岩手県の陸前高田市が海の資料館を作るからということで、コンペがあったんです。4社か5社のコンペで、僕はアサヒ通信社という広告代理店のスタッフとしてやりました。おそらく誰か、僕が鳥羽の海の博物館の展示をやったということを聞いた人が紹介してくれたんだと思うんですけれども。実際は建築のプランと展示のプランも全部出すコンペで、僕は下請けの下請けだったので名前は全然出ないんですけれども、建築のプランもやりました。全然門外漢なのに建築のプランも展示のプランも全部やったら、何と決まりまして。
年明けからいろいろ打ち合わせをやって、5月に陸前高田へ行って、まず陸前高田市博物館の館長さんたちと打ち合わせをしました。そうしたら、そこで展示するテーマは鳥羽源蔵さんという博物学者の資料が中心なんだと言われました。鳥羽さんはこういう人だよということを聞いたときに、若い頃に植物を牧野富太郎さんに習ってものすごく交流が深いんだという話を聞きました。僕は高知出身で、その当時牧野植物園の園長を知り合いがやっていましたので、「ひょっとしたら鳥羽さんの手紙が高知の牧野植物園にあるかもしれないから、僕が探してきますよ」と言って。それで、電話して探してもらって、あったということなので、1993年に牧野植物園へ行きました。
高校の遠足以来だったので15年ぶりぐらいでした。牧野さんへの書簡類はたくさんあって、それを文庫の司書の人が全部あいうえお順に分類しているんですけれども、その中でも14通というものすごく多い数なので、かなり交流が深かったんだねということになって、それのレプリカを作らせてもらいました。
翌年の1994年にもう一回その陸前高田の博物館の進捗状況を報告しに行ったときに、「今度、牧野植物園も拡張整備工事で記念館を建てようと思うんだけども、里見さんは展示をいろいろやってきたみたいなので、博物館というのはどうやって作るんですか。」とその園長に聞かれました。博物館をどうやって作るかも知らないのに予算が決まっているというのは、高知県はすごいなと思いましたけれども、僕の分かる限りで、こういうスケジュールでこうやってやるんですよと言いました。その次に、「誰か里見さんがこの人だという建築家はいませんか。」と聞かれたので、それは内藤さんしかいないですよ、この人はこうでこうでと言ったんです。それで連絡先を教えてくれと言うので、紙に内藤さんの事務所の番号を書いて、当時の園長に渡したんです。そうしたら園長がメモを見て受話器を取って、いきなりそこの番号へピポパとかけて。「もしもし、高知の牧野植物園の園長だけど、内藤さんいる?」というものすごいスピードで。すごく高知の“いられ”(=土佐弁で、気が短い、せっかちの意味。)の人で、あつっぽい人で、牧野富太郎が乗り移ったような、とても県の職員とは思えないような人でした。
でも、内藤さんにすぐ決められるわけはなくて、実際に動くまでには、植物園の人に求められていろんな内藤さんの資料を東京から送りました。高知から海の博物館を見に行きたいんだけどということで、僕は植物園の人に呼ばれて2回ぐらい鳥羽まで、交通費も誰も何もくれないんですけれども行きました。とにかく僕は、僕のふるさとに、牧野富太郎さんの建物を作れるのは内藤さんしかいないと思ったので、これだけすごい人なんだよということをファックスで送ったりしました。牧野植物園や牧野文庫の方たちが一生懸命説得して、県の人に内藤さんというのはこうなんだよと。実際、内藤さんに決まったのは1年後ぐらいだったと思います。
まず僕が東京へ帰ったら、内藤さんから僕に電話があって。「何か県立美術館の鍵岡さん(当時の高知県立美術館館長)から電話があって、高知へ来いと言われて、内容は里見さんが知っていると言うんだけど、どういうこと?」と言われて。ああそうかと思って、牧野富太郎という人がいて、こうこうこうでと説明して、一度事務所にも行って資料を見せました。内藤さんはものすごく忙しいときだったんだけれども、高知へ行ってくれて。そのとき僕はいなかったんですけれども、内藤さんが牧野文庫へ入って、牧野富太郎の植物画を見て、これはやりたいと思ったそうなんです。
その植物画がどんなのかをちょっとお見せします。牧野富太郎さんの絵が牧野文庫に1,700枚あるんですけれども、文庫の司書はこれを見せたかなと思うんです。(*8)これはきれいと思いますよね。幅が20センチぐらいの和紙に描いています。茎が8ミリぐらいなんですけれども、よく見たら、8ミリの中に線が13本ぐらい描かれています。全部毛筆で描いています。僕は牧野植物園で17年間勤めましたので、いろんな人を文庫に案内したり建築案内をしましたけれども、分かりやすいから牧野さんのすごさを言うために、8ミリの中に13本あるとか言っているんですけれども、そういうのは、(直線であれば)訓練をしたらできるんです。僕も大学で1ミリの中に何本線が引けるかとかやりましたが、牧野さんは花びらのカーブのところにも同じように描いている。直線であれば溝引きというものを使えば描けるんですけれども、これは描けません。
それで内藤さんがどこに感動したかは分からないんですけれども、僕がこれを見て本当に生き生きしているなと思うのは、ここ(茎)の中を水とか養分が通るわけですね。そして、ここを通ったのがガタガタせずに、なめらかに蛇行せずに行くように中はなっているはずなんです。このきれいなライン。これがこの植物の生き生きした感じになるんだと思うんです。
牧野富太郎記念館の展示をやるために、5年間かかって、牧野さんと交流した人とかいろんな人の話を100人近く聞いたんですけれども、1人牧野さんから直接絵を教えてもらったという女性がいました。牧野さんの指導は、描いたのを牧野さんに渡すと、牧野さんが赤を入れて戻してくれて説明をする、ということなんだけど、常に言っていたことが「筆意のない線で描け。」だそうです。「“筆意”のない線」というのは、「筆」のヒツに「意味」のイ。つまりそれは自分の思い通りで描くな、筆に意図を持たせるな、つまり、植物のことだけを描けと言うことです。「まだこれは筆意があるな。」とか。それを聞いたときに、ああ、内藤さんがいつも言っていることと何か近いなと思いました。
内藤さんは建築を考えるときに、造形をしようとかは考えないんです。こういう形にしようとかは考えないで、まずは建築基準法を守り、消防法を守り、お客さんのわがままや要望に応え、土地の持つ状態とか地勢とか空気とか温度とかをその中で積み上げて、その構造、屋根の重力をどういうふうに安全に地面に戻すかとか、そういうことをやって。昔、内藤さんと雑談しているときに「うちの事務所の若いやつら、俺の設計つまらないって言うんだよね」と愚痴っていました。それでそれぐらい内藤さんの建築のデザインというのは、おそらく99%ぐらいはそういう要請や、守らなきゃいけないものをクリアして、最後の最後の1%ぐらいは僕の意図を出させてくれよというふうな感じで作っていると思うんです。それは牧野さんが言っている「筆意のない線」というのと近いなと思いました。だから内藤さんはこの絵を見たときに、やろうと思ったのかなというふうに思いました。
―石元がとらえた「牧野富太郎記念館」
[里見]
これは石元さんの写真で、展示館の北側から見たところです(*9)。だから植えたばっかりのシマサルスベリという木が植わっていまして、幹がこの添え木と同じ太さなので、1999年の段階ではおそらく10センチぐらいだったと思いますが、現在は45センチか50センチぐらいに育っています。夏から秋にかけて花をいっぱい咲かせてここのシンボルツリーだったんですけれども、5年前にすごい台風が来まして。植物園をご存じの人は分かるけれども、ボキッと折れてしまいました。本当に職員みんな何か心のよりどころを失ったみたいな気持ちだったんですけれども、それがまた5年経ってリカバーしています。そのように建築は変わらずに存在するんですけれども、この周りは、植物園ですから毎日毎日育っていっています。
これはできたばっかりのときの展示館の中庭です(*10)。添え木がいっぱい立っています。(打ち合わせの時に)影山さんがこれを見て、「石元さんの桂離宮の古書院の月見台と同じだね。」と言うんで、なるほど、ここに廊下みたいなのがあって、ここに月見台があって、向こうに池がある。同じなんだなというふうに思いました。これを作ったのが田窪恭治さんという人で、今日はせっかく美術館だから田窪さんの話もしようと思ったんですけれども、時間がありませんのでまたの機会にします。この写真が何年か後にどうなったかというのが次の写真です(*11)。これがさっきの写真の10年後ぐらいだと思いますが、添え木はもちろん全部取れて、下草が生えて、向こうに四国山地が見えて、雲があって。この写真は昨日植物園からお借りしましたが、僕はここができたとき、現場の残工事とか図面書き換えとかで建物が建った後3カ月ぐらい、ここに毎日来て図面を書き換えたりしていたんですけれども、見ていたら、春先にスズメの親子がこの辺に巣を作って飛行訓練しているんです。まだ下手くそな子どもが2羽か3羽いて、親がこうやって飛ぶんだよと教えているのを見ました。ここは外敵とかから逃れられて、ツバメにとってもすごく安全な場所なんだなと思いました。そういう場所にはやっぱり人間も安全な気持ちになってゆったり植物と対峙できるんだろうな、内藤さんはそんなところまで考えてすごいな、と思ったことでした。
最後に一つだけ。僕は内藤さんを今まで2回ぐらい怒らせたことがあります。海の博物館でも一度あるんですけれども、牧野富太郎記念館でも一度すごく不愉快にさせたことがあって。内藤さんが牧野の建築を考え始めたとき、植物園もシンプル極まりない海の博物館のようなイメージだったんです。それがある日突然、これ(完成形)に近いこういう屋根が大きな曲線のになったときに、僕も植物園の人もちょっとついていけなくて。何か内藤さんは遊んでいるんじゃないかなと思って。みんなが「里見さん、ちょっと内藤さんに聞いてくれ。」と、直接言えないからということで、僕が手紙に書きました。「これが本当に100年残るデザインですか。」と生意気に、何にも分からないのに書いたんです。手紙って本当に言葉で言うよりグッサリきますよね。内藤さんはものすごく怒ったらしいです。その当時の副所長さんに僕が呼ばれて、「内藤がすごく怒っているぞ」と。「里見は俺の味方だと思ったのに、背中からピストルで撃たれたような気持ちだと内藤が言っていたよ。」と言われました。そんなことがあった中、一回一回プランが出るごとに、だんだん周りをコンクリートで固めてとかいろんな整合性が出てきて、僕らは、内藤さんにああいうことを言ったのが本当に恥ずかしいと思いました。本当に僕らが考えるよりもっと先のことを、牧野さんが喜ぶような、それでいて無駄のない、そういうのを作ってくれたんだなと思ったようなことがありました。
石元さんは写真という作品を作っていますし、内藤さんは建築という作品を作っていますのに、僕だけが何か思い出話をするだけだと申し訳ないなと思いまして、作品というのも恥ずかしいですけれども、これは昨日描いたものです(*12)。内藤さんを怒らせたころ、今の展示館があるところがまだみかん畑を切ったばかりの状況のときに、2人で行ったことがありました。たぶんああいう手紙を書いた僕に言いたかったんだと思うんですけれども、はるか四国山地を見渡せるまだ何も建っていないところで、内藤さんが「自分は植物園からの依頼で建物を建てているんだけれど、100年、もっと持つような建物を考えようと思っているんだ。そのときにはもう植物園もなくなっているかもしれない。」と言っていました。「高知県というのも、県というシステムもなくなっているかもしれない。でも、自分が建てた建物がそのとき花の市場か何かになってもいいし、その時代の使われ方をしたらいいんだよ。俺はそのぐらいの感じで、すごく長い時間を考えながらやっているんだ。」ということを言われて、ああ、と思いました。
そのときのことを、ちょっと絵にしてみました。時間というのがずっと流れて、今もどんどん流れています。その中で地球が46億年前に生まれて、いろんな微生物から動物になって、地質もいろいろ変わって五台山というのができて。まだまだどんどん変わっていって、内藤さんが建てた建築というのが、例えばここから100年ぐらい残るかもしれない。僕がやった常設展示というのは、分からないですけれども、数十年あってまた変わるかもしれない。その中で牧野でやってきた企画展示というのが、一個一個花が咲いてはしぼむようなイメージを持ちました。100年持つ内藤さんの建築というのは、言ってみれば、花の時期の長いシクラメンみたいなもので、僕がやっている展示の仕事というのは、1日でしぼむツユクサみたいなものなんだけれども、お互いそれぞれの役割を一生懸命やったら、この未来に向かっても過去に向かっても恥ずかしくない仕事になるんだなということを、内藤さんと四国山地を見たときに思い出しました。そして草木の中の建築と展示ということなんですけれども、周りの植物はどんどん生長していきます。
さっき言ったみたいに、陸前高田に僕が作った博物館のご縁で、牧野さんの記念館もできるようになりました。そして去年植物園から依頼があって、(イギリス)キュー王立植物園収蔵の植物画の展示会をやったんですけれども、その中で、陸前高田市の一本だけ津波で残った奇跡の一本松の絵を、すごく大事なものとして展示しました。陸前高田でいつも打ち合わせのときに歩いていたものすごく素晴らしい松並木があったんですけれども、それが一瞬の津波でなくなりました。僕は知らなかったんですけれども、内藤さんが、陸前高田市にできる国立の高田松原津波復興祈念公園の計画に関わっていて、今年完成する祈念施設の設計をしているそうですが、そこにキューガーデンの人が描いた陸前高田の絵が飾られるようになったそうです。内藤さんにとって陸前高田というのは、それまでは何の縁もなかったんですけれども、内藤さんの東京大学の最終講義の日が2011年3月11日で、その講義が始まる30分前に震災が起きて、講義がなくなった。そのとき内藤さんはすごく運命的なものを感じて、東北の震災の復興に自分の力を貸したいというふうになったそうです。何か僕、これは不思議だなと思います。僕が陸前で仕事をしなかったら、少なくとも五台山に内藤さんの建物はできなかったと思うんですけれども、それが回り回って、陸前高田の木をテーマにした植物を描いて、ぐるっと一つの物語があるなというふうに思いました。それが記念館のできる時の話です。
今日は植物園の人も来ているかと思いますが、僕は昔話をしましたけれども、こんな感じでいろんなエピソードがあって、一生懸命、牧野富太郎記念館を作りました。でも僕がいつまでもいてもあれなので、2年前に退職しました。若い人は若い人で、僕のデザインとか展示にこだわることはないから、今の感覚でどんどんやっていってほしいと思います。でも、こういうぜひ長い目で。今年は入場者数が減ったから何かイベントをやって何万人、何十万人にしようとかそういう目の前のことじゃなくて、長い将来のことを見て牧野植物園をもっといいところにしていってもらいたいなという話で、僕の話は終わります。
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