[再録]石元泰博インタビュー 1(2000年12月20日)

*このページでは、当館にて2001年に開催された展覧会「石元泰博写真展 1946-2001」の図録に収録された石元泰博氏へのインタビューを再録しています。一部を除き、表記や内容は当時のまま掲載しました。
 
 
2000年12月20日東京、品川のご自宅にて滋夫人とともに
聞き手:影山千夏 高知県立美術館学芸員(当時)

シカゴ、インスティテュート・オブ・デザイン、通称ニュー・バウハウスという学校

―独自の教育方針を持つ学校として知られるバウハウスの思想を継承する学校ニュー・バウハウスについてお聞かせください。どのような授業が行われたのですか?

 石元 自分でもどういうカリキュラムになってたのかなと思って時々考えるんだけど、通ったのは半世紀以上前だから、随分と忘れてしまいました。

 

―写真科以外には?

石元 ビジュアル・デザイン、プロダクト・デザイン、シャルタ・デザイン(建築)がありました。自分たちのクラスは4人で、一学年20人ぐらい、夜学も入れて全学生700人くらいの少人数の学校でした。

 

―各課共通のカリキュラムがあったのですか?

石元 最初の2年はみんな一緒で、後の2年で専門に別れる。入ったのは写真科だけど初めはやることは皆同じ。その基礎のところを、いわゆる昔のバウハウス的な格好でやっていました。

 

―最初の2年間はどういった授業が行われましたか?

石元 いつも話すんだけど、ほんとに落書きから始めるんです。何日も何日も一週間も十日も同じ課題を長い時間かけてやる。落書きをやることでいろいろなことを自分で勉強し納得する、「こういうこともある」「ああいうこともある」って。単純に落書きといっても、紙や筆記道具が違えば線も変わってくるから、様々な素材を持ってきては書く。そうすると、素材によってどのような線が出来るかということを自分で知るでしょう?鉛筆の持ち方だけでも、何通りもあるわけだから。でも、それについて先生は何も教えません。ただ見ているだけで、「こういう線をひきなさい」とかそういうことは一切言わないから、自分でやらなければ何の勉強にもならない。やらなくたって怒られないしね。

 

―物足りなく感じていた生徒とかいませんでしたか?

石元 自分は美術教育を受けるのは初めてだったからすごくおもしろかったけど、別の大学でアート教育受けてきた人の中にはおもしろくないと思った人もいるかもしれませんが、結構皆やってましたよ。自分のクラスに、特別な奴が2人いて一人はカナダからやってきた奴と、一人はシカゴの男。この男はがんがん何にでも書くし、もう一人の男もやるの。紙があればなんでもめちゃくちゃに書くもんだから、ごはん食べに行ったらそこのレストランのナプキン全部無くなっちゃうくらい。だから皆、彼らの刺激で引っ張られていくの。そんな感じで自分たちは、課題が出たらこういうことを朝から晩までやってた。自分で繰り返し毎日やって、体で教わっていくという感じ。同じことを毎日やっていると飽きてくるし、だからいろいろ試したりし始めるし、何か自分で分かってくるものです。先生は何も教えないから、ある意味それぞれの個性が出てくるよね、自分のやり方みたいなものが。

 

―他にはどんな課題がありましたか?

石元 まず一個点をうつ。それから点を増やしていったり、点と点を線で結んだり、色を付けたりしていくの。たとえば線で結んでなくても、点と点が引っ張り合うわけでしょう?その距離に比例して強かったり弱かったりする。そういうことを発見し、理解していくような課題がありました。それから、ハンド・スカルプチャーっていうのもやりました。これは、自分で角材を切ってもらって適当に削って、自分が手で持って“いい感じ”の形を作るの。自分の感じるままに削っていくと抽象的な形の彫刻になるんです。

 いい感じのね。それは、私がちょこっと行った時もやってました。鑿や、ナイフで削るんだけど、鑿から自分で作るのよね。道具から。

石元 やかんでもなんでも、手で直接持つものがあるでしょう?それは一つの決まった型(かた)になっているじゃない。そういう事の始まりなんですよ。

 “手の中に収まるように作る”っていうわけじゃないのよ。ただ、出たり引っ込んだりしているところに自分が触って「あーいい感じだな」と思う形をつくればいいんです。

石元 自分の作ったのは、ちょっと抽象的な感じのもので、学校の案内のパンフレットにも載りました。この課題をやると、ボリュームについて触覚でも分かるし、見るだけでも分かってくる。今度は触覚の訓練なの、触れることでどういう事ができ、どう感じるのかっていうこと。その人なりの感じ方だから、他の人とは同じじゃないの。同じテーマで鉄も削りました。このくらいの鉄の棒をもらってまた削るの、やすりで削るからもう大変でした。石膏で彫刻を作る時だって、石膏をこねる道具まで全部鍛冶屋みたいにして作りましたよ。道具と作るものとのかかわりあいがあるでしょう?道具によってできるものが違ってくるから、そういうことも自分でやっていくうちに覚えてくるんです。

 

―他に素材に関する課題は?

石元 一年生の終わり頃には、「木や鉄やガラスなどいろいろな素材をジョイントしなさい」という課題がありました。素材によってくっつけ方がいろいろあるわけだから、いろいろな格好ですごく簡単なジョイントの仕方を自分たちで探すの。ワックスマン(*1)という建築の先生がいて、“パイプをハンマー一つでくっつける”というジョイントの方法を考え出しました。そしたら、彼はアメリカ空軍に頼まれてB29のためのでっかい格納庫を作ることになっちゃったの。

 

―とてもユニークな授業の数々ですね。

 急がない教育なんですよ、ゆっくりと納得していくの。

石元 この学校の指導っていうのは、先生は入念に研究し練ったカリキュラムを生徒に与え、生徒はそれを受け取って自分なりにこなしていくわけですよ。同じ課題を与えられても隣の席の人とは違うとらえ方をする、隣の席の人を見てまねしてもそれはそれでいいのよ、いろいろやることが大切。結局は同じ物にはならないから。

 

―2年目は更に高度な課題を?

石元 2年目も基本的には同じですよ。やっていることは幼稚だけど、後からすごいことになっていく芽はできる。その時点で完成された物はできないんだけど、課題をこなした経験を頭の中に入れておけば、何かの問題が生じた時にも「ああ、あの時やったようにやればいい」って自分で探す力がついてくる。

 この人の仕事を手伝っててそういうこと思うの。助手たちは写真学校卒業してるし、雑誌にも『ライトの当て方』なんて載ってたりしてるじゃないですか。だからライト置くところが最初からぴたっと決まっているんですよ。でも、この人はそうじゃないの、ライトを自分で持って、いろんな所から照らしておもしろい物が見える所を探して、「ここがいい!」って決めて立てるのよ。それはほんのちょっとの違いかもしれませんが、物の形ってライティングによって違って見えるでしょう。丸い物だって楕円に見えたり三角に見えたりするじゃないですか。それを今の人は割合考えないみたいに思えるの。

石元 結局ライティングは、太陽光みたいな強い光と、くもりの日のようなデヒューズの光と、基本的には二つだよね、それと後ろからバックライトそんなもんでしょ。ライティングの授業といっても、ただ大きい紙をぐじゃぐじゃっと折ったり、引っかけたりして、それに様々な方法でライトを当てる、というだけ。でも、そうやって基本的なライトの性質を自分で学んで、その効果がわかっていれば、何にでも利用できるわけですよ。どういう光が欲しいか、何を見せたいか自分でわかっていれば、たとえばファッション撮るにしてもそれにあわせてモデルを動かせばいいんですよ。結局はこっち側の問題です。自分が何をしたいかってこと。自分は建築写真家だっていわれるけど、「建築を撮る」という具体的な課題は無いわけですよ。大型のカメラの使い方、それを操作することを課題でやったから、建物撮る時はどうしたらいいかを知っている、ただそれだけのこと。日本みたいに、全部専門化してカリキュラムをたてるということは一切やりませんでした。

 

―生徒によって課題を変えていたということはありますか?

石元 先生のほうは、能力のある生徒とそうでない生徒を見極めていました。能力のある生徒ができていなかったらそれにはとっても厳しいんだけど、あまり無いのに能力のある者と同じようにやれっていってもできないでしょう?生徒に合わせた進め方をするからそんなに無理をすることはないわけ。

 

―先生方は何人いたのですか?

石元 20人以上いました。ワックスマン、シュマイルっていう良い建築の先生がいたし、フラードームを設計したフラーもいたしね。先生と生徒は皆友達みたいだったから、自分は写真なんだけどそういう先生達としょっちゅうつきあってた。どこのクラスに入り込んだって良かったし、自由なんだよ。

 私たちが3年間シカゴに行った時(1959-61年)、ただブラブラしてても仕方ないし、英語も少し習いたいと思って、(主人が)キャラハン(*2)に聞いてくれて、(ニュー・バウハウスの)基礎のクラスに入れてもらったの。もぐりこみの聴講生みたいなもんです。その時は、コズモ・カンパリっていうとてもいいイタリア人の彫刻の先生がいました。ハンド・スカルプチャーの時でも、私は他の皆さんと違う風にして入ったから「勝手な物作っていいですよ」って。それで、石元と二人で取り壊しの家の跡に行って石っころ拾ってきて、自分で作って削ったの。一つの作品の中で似た線を繰り返し使うと、「こことここの形が似すぎている。それは、一つは日本的かもしれないけど、私はあんまり好きじゃない」とかいわれて、それで順々に直していくと、割合おもしろいのができてね。先生がクラスの人呼んで「彼女はこんなに小さいのに、こんな力強いのを作った」っていってくれました。あの頃丹下さんもクラスにいらっしゃって、見にきたりもしてました。なんか変な一時期だったわね。

 

―奥様の時も、大体同じようなカリキュラムだったのですか?

 私の場合は、最初の落書きなどはとばして、他の学生と一緒にハンド・スカルプチャーからやりました。面白かったけど、カンパリが、フォードの賞をもらって学校辞めちゃったから、つまんなくなってだんだん行かなくなってしまいました。カンパリぐらいまでは、バウハウス的な授業が行われていたと思いますけど、後は変わってしまったようですね。

石元 いわゆる昔のバウハウスとは、今は違っていると思います。我々が行ってた後、校長が変わってずいぶんコマーシャル的になっていったし、工業デザインもずいぶん変わっていったと思います。時代が変わったともいえます。

 

―日本で指導していた時(*3)はバウハウス的指導でしたか?

石元 そういう感じでやったんだけど、でも日本の生徒はやっぱりいろいろと指導して欲しいんじゃないですか?こうしなさいああしなさいって。それで、すぐ結果を求めるんですよね。

 

―日本ではそのやり方は通用しないですか?

石元 そうだね、日本は一クラスの人数が多いし、お互いが初めからすれ違っているから。少人数で、しかも生徒も“こういう授業だ”って覚悟してなければ通用しないと思います。それに、日本は文部省の規定や何やらあるわけだから、シカゴみたいに一つの課題を長くはできないですよ。一般教養も決められたものをやらなければならないでしょう?ニュー・バウハウスでは、一般教養といっても、それはデザインに関係した格好で授業ができる先生が来ていました。たとえば歴史の授業でも、ただ歴史を教えるのではなく、デザインと絡めるからもうちょっと違った形になっていました。デザインの歴史というわけではないんだけれども。微妙だけどね。

 

―大学の先生としては10年くらいで辞められていますが…

石元 週1、2日行っても、すぐ1週間くらい取られてしまうから、撮影する時間が無くなってしまうんですよね。写真はまったなしでしょう。今日だったら今日、何時だったら何時の仕事だから。仮に、デザインだったら徹夜っていうこともできるだろうけど、写真はその瞬間に自分が立ち会わなければならないから、どうにもならないわけですよ。だから、教えることと写真を撮ることは両立しなかったですね。

 

シカゴという街

 ニュー・バウハウスの夜学っていうのは市民も受け入れるのね。日本に帰ってきてから後、1ヶ月くらいシカゴに滞在したことがありました。その時、日本人がオーナーの美容院に行って、“シゲル・イシモト”って名前を書いたら「石元さんていったら、もしかして写真家の石元さん?」っていわれたので、「そうですけど」って言うと「私良く知ってます、その写真を。夜学に行ってた時“ヤスヒロ・イシモト”の写真が飾ってあって、皆つくづくその写真を見たから」っていうんですよ。もう卒業してから30年ですよ、私のほうがびっくりしちゃって…。だから、シカゴの街って不思議な街ですよ。

 

―ずっと続いて行くものがある街なんですね。

 そう、だからシカゴでの石元の展覧会も成功になっちゃいました。キャメラ・クラブの人が、まだ覚えているのよ。シカゴのキュレイターが飾り付けをしている時、うしろを通る人が「あっ、ヤスだ!」って言うのでびっくりして振り返って「どなたさまですか?」ってきくと、「昔、ヤスと同じフォート・ディアボーン(*4)にいた」っていうんですって。オープニングの時お友達引き連れて来て下さって、こちらが本当に感激してしまいました。

石元 こっちは全然憶えてなかったけど…(笑)。田舎町だから、皆よく憶えてるし、繋がりがあるのよね。

 それと、街を綺麗にすることで一生懸命よね。「シカゴはいい街だ」って住んでる人が言うもの。

石元 シカゴは建築の街、新しいモダン建築の発祥の地なんです。結局、モホリ(*5)があそこにやってきたのも、そういうところだからじゃないかとも思えます。ルイス・サリヴァン(*6)もいたし、ライト(*7)も近くにいたし。

 私が働いていたギャラリーで使ってた椅子も、ライトの設計の椅子でしたよ。

石元 それから、ミース(*8)もいた。いい建物が今も残っているけど随分無くなっていったね。でも、日本みたいに無造作に壊さないけど。残すものは残すっていう感じ。

 シカゴでの展覧会の時、日本からわざわざ見に来て下さったお友達がいるのね。その人たちは、朝早くから散水車が歩道に出て街を掃除していたことに、とても驚いていました。シカゴでは、皆そうやって街を綺麗にしようとしているのね。花が置いてあったりね。先々代の市長の時代から、市長が先に立って街を綺麗にしようってやってて、その効果が今現れていると思います。

 

―最初にシカゴに暮らしていた時はそういう感じではなかった?

石元 まだ、ギャングなんかもいて、その上警察がギャングと一緒になっちゃってね。カリフォルニア大学の犯罪の先生を連れてきて、警察から教育し始めてからは、そういうのが無くなって、自分が学生の頃にはもういなかったですね。シカゴっていうと“アンタッチャブル”のイメージがあっただろうけど、むしろ今はモダン建築のメッカですよ。

 観光に『建築を見るコース』っていうのもありますよ。不勉強の私達はそのツアーをしてないんですけど…。

石元 日本も、もうちょっと自分たちの町並みについて考えてくれるといいなと思いますね。毎年沢山の人が海外に旅行して、いろんな街を見てきていると思うけど、どうして活かされないかなって情けなくなってしまいます。日本は都市計画が全然できてないからね。今の住宅も美しくないです。戦前の建物は農家でもがっちりしてましたよ。綺麗な瓦の屋根や白い壁の塀や生け垣があったりして、風景が続いていましたよね。日本の建物の美しさは、外国の建物にも劣らない風格があったのに、今はもういい家が無くなってしまいました。

《桂》、《伊勢》から《うつろい》へ

―《桂》と《伊勢》の作品についてうかがいます。どちらも歴史ある建築として残されているものですが、一方は同じ物を伝えていく、一方は同じ行為を繰り返す伝統を伝えていくというものですよね。その時間観のようなものをどのように受け止められていますか?

石元 最初の《桂》は、シカゴの学校を出てすぐでした。その時はまだ修理する前だったので、装飾が無くモノクロ的で、かつ直線的な存在でした。モダン・デザインのようでちょうどそれが自分に合ってたんですよね。色が無いからエッセンスがそのまま直接的に出ていました。2回目の時は、色が着いてしまった。元に戻ったんだけど、もし色の着いているほうを最初に見たら、拒否反応を起こしていたかもしれない、という感じがあります。自分にそれを入れるだけの許容度も無かったし。魅力はあったんだけれども、装飾が先に目にきちゃって最初の時のようにスーっと入ってこなかったかもしれないと思います。1回目の《桂》と2回目の《桂》の間に《曼荼羅》をやったことで許容度も広がっていったんじゃないでしょうか。禁欲的なものから、自分の嫌っていた装飾的なものも受け止めることのできる状態に、《曼荼羅》をやることによってなっていった。それでわりあい2回目の《桂》はすんなり入れたと思います。桂は“わび” “さび”といっても、もう少し膨らんだ“きれいさび”っていうことばで表現されるんだけど、そういうものを受け入れる心積もりが《曼荼羅》をやることでできたんですね。

伊勢神宮は、日本に最初に帰って来た時(1953年)から撮りたいと思っていました。でも、その時も次の遷宮の時も許可が取れなくて、40年目にしてやっと撮影できたんです。だけど、それだけ時を経たのは良かったと思う。20年毎に遷宮が行われる伊勢の場合は、造形的には桂と似ていますよね、直線的で。似てるんだけれど、伊勢の場合はもうちょっとエロティックなものがある。神宮でエロティックなんていったら怒られるけど、草屋根のちょっとした曲線や、大きな丸柱のふくよかさが人間の肌みたいで、桂よりももうちょっと生(なま)のものがあるような気がします。真っ白な新しい桧の木肌がほんとに綺麗でした。あの建物は、古くなるにつれ良さが出てくるんじゃなくて、一番最初の新しいところが綺麗なんです。桂は、時間が経つにつれて綺麗さが出てくるっていうところがあると思うけど、伊勢の場合はそうではない。新しく建てられた伊勢神宮を見たら、それは圧倒的に美しいですね。伊勢の人が言っていたけど、「新しいのが一番美しい」って。そういうことで《伊勢》では、時間のありようみたいなことを勉強しちゃったんですよね。時間の問題、消えていくもの、日本人の持ってる時間概念て一体なんだろうっていう。法隆寺も1000年ほど前にできて、1000年持つように建てているのよね。でも伊勢は同じ頃に建て始めたのに20年ごとに新しくしていくってことを意識的にやっているでしょう?それは何だろうかと思うんですよね。法隆寺の時間は直線的だけど、伊勢の時間は直線じゃない、螺旋で段々あがっていくっていう時間。今撮影している雲や水なども同じで、消えるけど循環していて、消えるんじゃなくて変化していく、これは日本には四季があるからヨーロッパ的な時間観と違うと思うんだけど、どうだろう。自分も年だから消えていっちゃうんだろうけど、またよみがえっていくだろうし…。伊勢をやったことから、今の水や雲を撮ったりっていう《うつろい》のシリーズが始まったんです。

 

―これまでの写真をずっと見ていると、破壊されていくものをよく撮ってらして、その流れから、つぶれた缶や、葉っぱなどの《うつろい》のシリーズへと繋がっていくかと思っていたんですが、伊勢からですか。

石元 環境の問題は、それはずっと撮っていることですね。でも、《伊勢》と《うつろい》は“時間”ということで繋がっています。変化し、無くなり、再生するということね。もう一つはそれだけではなくて、消えていく、それから見捨てられたものにもきれいな良さがあるっていうことも含まれています。だから、綺麗な葉っぱは撮らなくて、枯れて、落ちている葉もすでにそうなんだけど、それがさらに人にふんずけられて虐げられて消えていくみたいなもの、そういうものを撮っているんです。缶は、撮った当時道端にたくさんおっこってたの。それで「これはどうしたものか」と毎日見てて、そこからアイデアが浮かんできてね。身の回りにあるものを見ていると、そこから何か生まれてくるものなんです。

 

―《うつろい》のあとまた新しい展開がありますか?

石元 もうこれで終わりだよ。人生もそろそろ終わりだし。

 

―今でも、点を打ったりっていう学生時代の課題をやってみたりしますか?

石元 今はもうやらないけど、自分の中にそういうバウハウス的な造形の訓練があるわけでしょ、それがあるから写真を撮ってると、ぱっと見てフレームの中に入ったら、全部関係づけて作ってしまっているわけなんだよね。無意識の間に構図を作っているんです。だからそれは長所であると同時に欠点でもあるんですよ。自分のくせにはめているというか。別の言い方をすれば、マンネリにもなってしまうということ。周りをもう少し入れたほうが良いのに、エッセンスの部分だけすっと取ってしまう。本当はそうしないで、もうすこし素直に見るようにしなければいけないけど、なかなかそう出来ないんだよね。カメラ覗かなくても何かを見た時、こちらが意識しないのにフレームにしてしまうんですよ。《人の流れ》も、覗かずに撮ってるんだけどフレームに入ってるの。ほんとにトリミングしてないんだけど入ってるんだよね。

 

―最後に、写真家だけではなく、物づくりをしていこうとしている方へ、メッセージをいただければと思いますが。

石元 さっき話したことから拾ってくれればいいんだけど…。身の回りに材料が一杯あるっていうことを知ってほしいです。頭の中で作ってから探しても駄目。自分の目で何回も何回も見ていると、見えなかったものが見えてくるのよね、自分のほうも変わってくるし。意味づけができてきて、それを見つけたら夢中になって撮ってしまう。だから自分なんかこんなに(沢山に)なってしまって…。シリーズのものにしてもいっぱいあるでしょう?

 

(初出:「石元泰博インタヴュー 1」『石元泰博写真展 1946-2001』高知県立美術館、2001年、pp.130-135)