うつりゆくもの 変わりゆくもの 石元泰博の世界11

《シカゴ 街》(1960年頃)
  ©高知県,石元泰博フォトセンター
《シカゴ 街》(1960年頃)   ©高知県,石元泰博フォトセンター

最後のシカゴ暮らし

「アメリカへ戻ってから半年目、滋(石元夫人)が、日本美術工芸を売るS.H.モリのギャラリーに勤めた。私はとにかく写真の仕事をはじめた。ミノルタSR1を肩にかけて、ポケットにはいつも10本ほどのフィルムを入れ、シカゴの町の中を、どこでも、どこへでも歩いて回った。」(アサヒカメラ1962年)

1959年から61年の二度目のシカゴ滞在の頃、都市再開発のため、町のあちこちでは古い家が壊されていた。石元は壊されていく古いシカゴを写そうと、夏の暑い日差しを避け、夕方光がやわらかくなると町へ繰り出した。

好景気のアメリカでは、町のそこここに国旗が揚げられていて、石元の写真の中にもよく星条旗が登場する。それらを見ていると、アメリカ人の国旗好きが良く分かる。いや、自国に誇りを持っているのだろう。アメリカ名物のパレードでは白人も黒人も、アジア人も関係なく、人々が星条旗を振る姿があった。

この写真は、賃貸アパートに“FURNISHED ROOM”(家具付きの部屋)という宣伝看板が掲げられているものである。“FURNISHED”とは“必要なもの、役に立つもの、望ましいものなど供給します”という意味。「アメリカには、全てのものがそろっていて、それらはあなたのためにあります。」といっているようで、石元は、この看板の背景にある自信に満ちたアメリカの心を感じとったそうである。「それにしても、あまり立派な窓じゃないね。」と石元は笑った。

アメリカの賃貸アパートには、部屋だけ貸すものと、家具や生活用品をセットで貸すものがある。石元夫妻は、場末の家具付きの部屋に仮寓。日中撮りためたフィルムの現像のため、小さなキッチンが夜は暗室となる、そんな毎日だった。

先ごろ、カメラの老舗ミノルタが、カメラ、フィルムなどの写真事業から撤退することが発表された。フィルム撮影、印画紙への焼き付けはデジタルに押され急速に衰退していった今、驚きというより、ついにその時が来たかという感がある。ミノルタは製品の開発だけではなく、文化、学術に対してのサポートも行っており、石元もミノルタがまだ千代田光学の時、創業者田嶋氏のご好意もあり、シカゴ滞在期間中同社から援助を受けた。石元は撮影に集中し、滞在予定の1年は、3年にまで延びていた。「こうした私の滞在延長を可能にしたのは、ミノルタからの援助があったからで、私は、今も深く感謝している」(アサヒカメラ1962年)

1960年、シカゴ美術館写真ギャラリーで個展を、帰国前の61年9月、ニューヨーク近代美術館で三人の個展(他ビル・ブラント、ルシアン・クレルグ)を開催し、石元はシカゴを後にした。シカゴで焼き付けたプリント3000枚を破り捨て、日本に向かった。「シカゴの3年間を踏み台にして、日本で何か写したい。」と希望を胸に。

(掲載日:2006年2月7日)

影山千夏(高知県立美術館学芸課チーフ兼石元泰博フォトセンター長代理)