桂、伊勢、そして石元泰博という写真家

「写真家・石元泰博の眼―桂、伊勢」関連事業

スペシャル・トークショー
桂、伊勢、そして石元泰博という写真家

企画展「写真家・石元泰博の眼―桂、伊勢」関連事業
開催日:2011年10月30日
会場:高知県立美術館ホール

登 壇 者:矢野憲一氏(五十鈴塾塾長、元神宮微古館農業館館長)
内藤 廣氏(建築家、東京大学名誉教授)
司  会:森山明子氏(武蔵野美術大学教授、デザインジャーナリスト)
総合司会:川浪千鶴(高知県立美術館学芸課長)

【総合司会】
ただいまより、「『写真家・石元泰博の眼―桂、伊勢』展スペシャル・トークショー」を開催いたします。まずは皆さまにご報告がございます。予定では、石元泰博先生、高知においで頂いて、このトークショーにもご出席の予定でしたけれども、直前に「やはり飛行機に乗るには体調が・・・」、ということで、大変残念ではございますが、今回ご欠席ということで、ゲスト3名の方のトークショーとなります。石元先生から「お会い出来なかった皆さまへ。」というメッセージを頂戴しております。ここで代読させて頂きます。

―お会い出来なかった皆さまへ。―

「皆さまに、お会い出来なくてとても残念です。本当に申し訳ないなと思います。高知の農業学校に通っていた時、学校の窓から外を眺めながら、30歳までは勉強しよう、とふと思いました。農業高校を卒業してアメリカに渡り、写真を学んだシカゴの美術学校、通称ニュー・バウハウスの卒業式が、30歳最後の日でした。偶然だけれど、30歳まで勉強したことになります。卒業式は誕生日の前日、6月13日の金曜日。その日はひどいどしゃぶりの大雨でした。そういえば、自分の大きな展覧会のオープニングは、不思議と何故か雨がよく降るのだ。高知でもやっぱり雨みたいだね。」と。この不思議な廻り合わせについて、「面白くおかしく、皆さまにお伝え下さい」と、先生らしい独特のユーモアで伝言を頂戴いたしました。高知の週間天気予報が、ちょうど今日だけ雨マークになっておりまして、先生はそれをずっと気にされていたようで、このようなユーモア溢れるお言葉を頂戴いたしました。

それではスペシャル・トークショーを開催いたします。本日のゲストの皆さまです。どうぞ壇上にお進み下さい。
先生方をご紹介させて頂きます。矢野憲一先生は、石元泰博先生が伊勢神宮の撮影に入られた際に大変お世話になられた方で、石元先生から特に「トークショーに、是非、お呼びしたい」というご要望がありまして今回ご登壇頂きました。お二人目のゲストが、建築家の内藤廣先生です。高知県立牧野富太郎記念館、JR高知駅など、私たちにとっても身近な美しい建築を多数手がけられていらっしゃいます。石元泰博先生の撮影による作品集『海の博物館』、『安曇野ちひろ美術館』、『牧野富太郎記念館』を4冊出版されています。そして、本日の司会をお務め頂きます森山明子先生です。石元泰博先生との長いお付き合いの中から緻密なインタビューを重ねられ、昨年、石元泰博先生の初の評伝『石元泰博―写真という思考』を出版されました。
では、これからは森山先生に司会進行をお願いしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

【司会:森山(以下森山)】
先程読み上げられた石元先生のメッセージの中に、「面白くおかしくやってね」というのがありましたので、石元先生がここにいらっしゃらなくとも、できるだけ面白くなるよう努力したいと思います。今回の展覧会は、「桂、伊勢」というものなのですが、桂離宮を撮影された1953、54年の写真があまりにも素晴らしかったものですから、石元さんは“建築写真家”と呼ばれるようになってしまいました。石元さんは、「僕は、建築写真家ではない。写真家なのだ。」こういうふうに仰っていました。今日はもちろん、高知にご参集の方ですから、石元先生の全貌というのは、かなりの程度ご存じだと思うのですけど、全写真の中から選んだ代表作100点程から、石元さんの全体の中で≪桂≫と≪伊勢≫が、どんな位置を占めているかも含めて、ちょっとご覧いただこうと思います。10分程度で、すぱすぱいきます。

~スライドによる作品紹介:省略~

―伊勢神宮とは―

【森山】
これからは≪桂≫と≪伊勢≫を中心に、最終的には、石元泰博さんという写真家は、どんな写真家であったのか、エロスも含めてですね、少し皆さんに語りかけたいというふうに思っております。まずは、先程矢野さんのご紹介がありましたが、ちょっと現実的なお話しなのですけれども、伊勢神宮は一体全体どんな組織になっていて、石元さんが伊勢神宮を撮られたときには、どのようなお立場であったのか、ちょっと我々俗世の人間にも分るようにお話し下さい。その後で撮影のエピソードなど伺いたいと思います。1993年のことですね?【矢野】
今、伊勢神宮、良く賑わっているのですよ。去年が、史上最高で890万、もう少しで900万人になろうとしたのですね。それも若い女の人の方が多いですね。若い方がいっぱい来てくれています。私は今、五十鈴塾という日本文化の体験学習塾を、神宮を退職しましてからやっています。私が神主を退いてからもう10年になるのです。賞味期限が切れました。いちばん私の華やかだったというか、いちばん脂の乗っていた頃が、石元さんが来てくれたこの前の(第61回)式年遷宮の時なのです。ご承知のように神宮は、たくさんの人が見えますけれども、奥の奥までは入れないのです。一番奥まで入れるのは、天皇陛下だけと申してもいいです。私も何度か御殿には上りましたし、10日目には御床の拭き掃除もありますけれども、しかし四重の垣に囲まれて居りまして・・・。これまで写真なんて誰も写したことなんてありません。そもそも写真に神宮の建物を写したのは、明治2年が最初だと思います。文部省関係の人がやって来て写真を写しました。それから次の年くらいに、外国人が写している記録があるのです。その後ずっと写真はまったくありませんでした。記録として何があるかといえば、江戸時代は、浮世絵の版画が少し残っています。それから、神宮の絵心のある神主が、両正殿の図を描いて。でも、それは垣の外から見たものですから、中はどうなっているか。それから日本画独特のあの雲ですね。雲の間から御屋根が出ているというような絵しか無いのですよ。
それから、ずっと遡ってみますと、室町時代か江戸の初期に描かれた、両宮の曼荼羅図があります。これははっきり描いてあるのですけれども、神仏習合の時代の、仏教者の手によって描かれたものですから、色も真っ赤です。現実ではない。デフォルメしてありますし、実際とは随分違う絵になっております。それは今でいう紙芝居とか、テレビの前身でしょうか。その大きな巻物を広げまして、山伏のような人が、「伊勢とはこういうところだ」という案内をしてあちこち回って説明した、それに使っていた絵なのでしょう。そういう絵が残っている。
さらには、平安時代に≪新名所伊勢絵合わせ≫という絵があります。それには、神主の邸宅の絵はあるのですけれども、御宮は全然。ただ塩を焼く建物がありまして、これは先生の作品にもありますけれども(≪御塩焼所≫)、“天地根元造”という不思議な、柱が無い地面から直接御屋根が出ているという風景が、平安時代に描かれております。それ以外、御本殿がどうなっていたという絵は全然ないわけなのですね。

そして昭和になり、横山大観や前田青邨やいろいろ絵描きさんが伊勢神宮を描きますが、杉の木に囲まれて、雲が懸かって、御屋根の大きい堅魚木が光っているという、そういうパターンの絵ばかりなのです。そして戦後になりまして、はじめて写真が御垣内の中に入ったのですよ。

昭和24年の遷宮は、戦争のために無期延期になりました。それで4年間延期して、28年に59回目の式年遷宮を行いました。40年ぐらい前までは、“式年遷宮”という言葉は、一般的には知られておりませんでして、一から話をしなければならなかったんですけれども、もう皆さんお解かりだと思います。その式年遷宮の写真を撮ることになりまして、たった一人の写真家が選ばれました。渡辺義雄という人なのですよ。建築写真家として選ばれました。そして朝日新聞から『伊勢神宮』という本が出ました。これが最初なのです。その昭和28年の遷宮の時、私は遷宮に参加したのですよ。有り難いことに。

―式年遷宮と記録、石元はなぜ伊勢神宮を撮影できたのか―

【森山】
どんなお立場で参加されましたか?

【矢野】
伊勢市の学校の代表として参加しました。中学校2年生、15歳でした。今から思うと、これ私が神主になったきっかけです。私の家柄は、江戸時代は神主がいたのですけど、紙屋、紙の卸をしておりました。“かみ”は“かみ”でもPaperの“かみ”だったのですよ。その紙屋の息子が神主になったというのも、遷宮で参加した記憶が強烈だったものですからね。今から思うとそうだったと思うのですよ。可笑しなものですね、人生っていうのは。それから20年ですから、今度は35歳で、神宮に入っておりまして、神宮宮掌(くじょう)として遷宮に関わりました。その時も、石元先生は、「伊勢を写したい」とおっしゃったそうですけれども、(撮れたのは)渡辺義雄さんだけでした。伊勢というのは、一度決まると、変更するのはかなり難しいのですよ。渡辺さんだけでしたから、かなり自由に撮影されたと思いますね。この時初めて、渡辺さんは、カラー写真で伊勢を撮りました。私は広報課長で、マスコミ関係全部引き受けていた。それと、博物館の仕事に勤務したりしながらですけれど、その35歳の時に。そして、その次ですよ。20年後ですから、私は55歳、平成5年です。最高の神宮禰宜として御奉仕が出来た時ですけれども、第61回式年遷宮は、たくさんの人が記録させて下さいと申し込みがありました。5組に限りました。まず、これが一番優先だったのですけれども、神宮司庁として、公式の遷宮の記録アルバムを作る為のチーム。これは神宮内部の写真家です。宇治橋の写真組合の人とか入れまして、3、4人。そしてビデオで全部記録を撮っておこうということで、TVC山本という山本富士子さんの旦那の丈晴さんの会社がありました。ここで言うのも何ですが、ちょっとしたスポンサーが付きましてね、それで神宮の記録全部撮っておくのだということで、映画の取材班が来ました。それから例によって、渡辺義雄さん。その時渡辺さん、かなりのお歳で80歳ぐらいだったでしょうか。そして石元さん。石元さんがよくこの選に入られましたね。いろいろ沢山だったですけれども、西村さんという助手でしたか、上手に交渉してくれましてね。

【森山】
図録の方の後ろに、その経緯がちょっと書いてあります。

【矢野】
その時の「選びましょう」と言った理由は、桂離宮を撮られたということ。これだけ日本的な写真を残した人ですから、きっと立派な写真を撮ってくれるだろうという、大いなる期待を持って来て頂いたのですよ。そうしましたら、もう一人現れて。「私も桂離宮撮っている。講談社からこんな立派な本を出しているのだ。私も一緒ではないか」と(いう人が)出てきました。西川孟さんという京都の写真家です。1925年のお生まれですから、今年86歳です。なぜ、この人が入ってきたかと言いますと、これが私も関係あるのですけれども、伊勢神宮をもっと皆さんに知ってもらおうということで、“敬神婦人会”という神社の婦人会の要望で、解かりやすい本を私に書けという。そして私一冊書いたのですよ。矢野憲一では名前が知られてないものですから、私の先生の樋口清之という先生と、それから著名人どっさりのいろんなエッセイをまとめて、『私たちのお伊勢さん』という本を主婦の友社から出しました。その時のカバー写真を、西川孟さんが撮ったのですよ。その縁で入ってきましたね。ご婦人の力ってすごいですね、やっぱり。神社の宮司さんの団体ですけれども、大宮司、少宮司、飛鳥神宮の宮司さん、明治神宮の宮司さんの奥さんたちから「この人を是非」ということで、それで5組になったのですよ。
話しが長くなってよろしいですか?

【森山】
ちょっと長いですね。端折りましょうか、面白いところだけ。

【矢野】
どういう行事があるかというと、段々と建物が建ってきます。そして、「御白石持ち」というのが、その夏7月31日から8月30日まであります。こぶし大の白い石を拾って来て御本殿の真下まで、伊勢市民が皆それを置くのです。その行事が毎日、毎日続いております。その時に57万人の人々が、その御白石持ちに参加しました。その時に初めて、一般の人が中へ入れるのですよ。20年に一度だけその時に。それはもちろんカメラ禁止、皆預かって。それから続いてお祭りが、「御船代奉納式」やら、「御扉祭」という、御扉を付けるとか、御扉の穴を開ける祭りとか、毎日のように次から次へとお祭りがあるのですよ。そういう時は入れない。

【森山】
そろそろ石元さんが登場して。

―石元版『伊勢』の魅力とは―

【矢野】
その中ですね、石元さんが写す時間がたったの3日間。内宮と下宮(それぞれ)3日間。他の人も一緒の日ですよ。カメラマンが写せるのが3日間。そういうものすごい制限がありました。時間も朝7時から4時まで。5チームがうろうろしますから。ところがね、石元先生写すのが速いのですよ。

【森山】
撮影するのが速いのですか?

【矢野】
ぱっぱっと(やる)。かたやある先生は、「あの雲が、こちらへ行くまで待とう」とカメラ据えてやっているのですよ。先程お伺いしたら石元さんは、全部計算してあって、光から何から「何処がいい」ということを全部計算してあって、そこで現場でぱっぱっとやるから早かったのですね。そういう厳しい中で石元さんが写したのが、あの写真なのです。

【森山】
あと、一つだけ。他の方が写した写真ですね。解かりやすいので渡辺義雄さんの写真と比べると、作品集になった石元さんの写真は、何かここが違うということがあったら、一つだけ教えて下さい。

【矢野】
切れがいいと言いますか。すかっとしているところ。アングルがいい。私、写真をどう表現していいか、解かりませんけれども、無駄なだらけたところが無いのですね。

【森山】
それは皆さんが、今日ご覧になられて誰もが納得すると思うのですが、現場で立ち会われた方の言葉ですので重みがあります。伺いましょう、内藤さん。今伊勢のお話しが出ましたが、内藤さんの、最初に話題になった建築作品は、「海の博物館」ですから、伊勢の直ぐそばと言ってもいいのでしょうね。伊勢神宮も行かれたと思うのです。それから桂離宮については、石元泰博さんに非常に長いインタビューをなさって、『著書解題』という本にまとめられている。被写体の桂や伊勢というのは、「これは写真の威力なのか。建物がいいのか」。内藤さんは建築家でいらっしゃいますから、その二つの建築と石元さんの写真についてちょっと質問が大きいですが、どの辺りからでもおっしゃって下さい。

―魅力的なのは実物か、それとも石元写真か―

【内藤】
「伊勢」と「桂」を、ショートコメントで答えろと。そんなことは出来ません(笑)。いやいや、矢野さんのお話しが面白かったので聞き入ってしまいました。僕はちょっと変わっているのかもしれないんですね。僕は、絶対石元さんの写真の方がいいと思っているのです。実物よりも。

【森山】
実物よりも石元さんの写真がいいと?

【内藤】
だから、石元さんの写真を見て、もう一回実物を見る人は、石元さんの目線で見るはずなので、要するに何にも見ないで行ったときよりは、実物がより解かり易くなるということがあるかもしれないです。石元さんの写真が、実物よりも何ではっきり頭の中に残るのか、これは不思議ですよ。お伊勢さんの建物も、別に人に見せる為に建っている建物ではないですよね。むしろ存在物みたいなものだから、見て楽しいという建物ではないと僕は思うのです。石元さんはそこから断片を切り取る。すると非常にはっきりしたものが見えてくる。それは実物とはちょっと違うような気がするんです。そのあたりを矢野さんに聞いてみましょうか。
【森山】
実物より写真がいいと仰っていますが・・・。

【矢野】
何でも物には旬があるでしょう、旬ね。いちばん良いときのいちばん良い写真ですから、伊勢が・・・。

【内藤】
僕、前の遷宮の時に近くまで寄らせてもらって、どういうものかなと思って観ましたけれども、とってもきれいな建物ではあるのだけれど、何か不思議な感じでしたね。何ていうのだろう、新築なのですよ。当たり前だけれども(笑)。

【森山】
当たり前です(笑)。新築の時が一番綺麗だと、伊勢の方々、禰宜の方々、皆おっしゃっているそうですが、やはりそうなのですか? 触りたくなるくらいですか?

【矢野】
一番綺麗ですね、出来立てが。段々段々と古色が帯びてきて、またそれはそれなりに神々しいという表現になってしまうのですけれども。「伊勢・遷宮、何ぞや」と、一言で言えばとよく言われたのですよ。中々言い難いですけどね。私は「常若(とこわか)」と、表現しました。

【内藤】
どういう意味ですか?

【矢野】
常に若い、これを「常若」という。

【内藤】
女性の理想ですね。

【矢野】
はい。20年なのですから、二十歳ですよ。いつまでも二十歳でおりたいという理想ですね。これどうですか?

【森山】
ちょっと、いろんな波紋を捲き起こしそうな発言ではありますよね、皆さん(笑)。「常若」ですね。なるほど。伊勢の話ばかりしていてもいけない。≪桂≫ももちろんご覧になられましたね? 桂についても、もしかして写真の方がいいですか? 伊勢は、見られる為の建築ではないと思うのですが、桂は見られる為の建築でもある訳でしょう?ある意味では。

—意識的な建物、桂離宮—

【内藤】
桂は2、3度行きました。最初は、昭和の大修理のまだ工事中の時に見せてもらって、中にも座らせてもらいました。「何かよく解らないなぁ」と思って。その後、桂について書かなければいけないので、また行ってみた。大体気になることは解っていたんです。要するにあの建物は「観てね」と言っているのですね、あれは。

【森山】
建築が?

【内藤】
歩いていると、建物や庭のほうが「ここ観てね」と言う。建物が言っているのですよ、「ここ観てね」と。庭を歩いていても、庭のほうが「ここ観てね」と。もの凄く意識的な建物なのです。それは当然そうで、「後水尾さまに来てもらいたい」という一心で造ったわけですから、何とか人を喜ばせたいという気持ちが溢れ過ぎているわけです。建築家の目から見ると「分かった、そこまでやらなくてもいいよ、分かったよ」とそういう感じがあるのです。

【森山】
なるほど。(展覧会場)ご覧になられて、伊勢の立場から見ると桂はどうでしたか?

【矢野】
解りません。あまり、感動もしませんでしたし。

【森山】
感動しない?

【矢野】
部分的には。全体の印象はあまり私は無いのですよ。私数年前にも、ちょっと地球一周の船旅をして来ましてね。世界遺産というものをできるだけ観て来ました。初めは、永遠を目指して造られた建物が、今や廃墟となって居ますよね、全部。故郷へ帰って伊勢を観て「わぁ、伊勢がやっぱり一番だ」と思った。しかも、神宮の遷宮の建物の新しいものを観て、「これは世界で一番美しい建物だ」と胸を張って言えます。「常若」です。

【森山】
困ったなぁ、神には逆らえない。

【内藤】
話の続きですけど、石元さんの写真は、桂の方は、作者の方の意図に引きずられていないのですね。作為、要するに造った側は、あらゆる所に作為があるのだけれども、その作為に引きずられないで、石元さんの切り方で切っている。だから僕は、石元さんの写真の方が実物より好きなのです。

【森山】
石元さんは、「僕は、桂に53年に行ったけど、全く知識が無かった。桂がどんな建物でどんな由来で、どういう評価の変遷を経て来たのかなんて全く知らなかったのだ」といつも強く仰ってましたから、今、内藤さんが発言されたように、本当にそれが事実だったのでしょうし、それをまた強調したいと、こういう思いが石元さんにあったのでしょうね。(矢野さんは)感動しませんでしたか・・・・・。写真はどうですか? 石元さんの桂。石元さんの桂の写真と、石元さんの伊勢の写真は、敢えて比べるとどうですか?

【矢野】
どうと言われても・・・・・。

【森山】
どうと言われても、伊勢がいいに決まっている?

—伊勢、桂はモンドリアンだ―

【矢野】
伊勢がいいというより、モンドリアンですね。桂のあの切り方ね。伊勢もそういう所を狙って先生は捉えている。特に、柱の切り口に白い和紙が貼ってあるのですよ。白い所。(≪内宮 東宝殿 東南隅床部分の軸組≫)【森山】
昨日伺ったのです。「あの、真っ白いモンドリアンみたいなものは何でしょう?」と。知らないでいたのですね、和紙だったのですか。

【矢野】
あそこは、どうしても木から脂(やに)が少し出てきますから。それを防ぐために、フノリでいい和紙を一枚ぺたんと貼るのです。もうそれ貼り替えることはしませんので。今は全部剥がれてわかりませんけれども。初めにその白さがアクセントとなって。それと玉砂利が、白と黒で区別してありますね。ここら辺、先生が得意とするところで、やられたのですね。桂もそれがありますものね。

【森山】
桂、それに極まるぐらいかもしれませんね。

【矢野】
伊勢との共通点、先生そこに見ていますね。

【森山】
桂、伊勢の写真の違い、共通点、差異ですが、いかがでしょう?

【内藤】
写真の違い。写真は別に変らないような気がするんです。石元さんは例えば正方形を見つけると、撮っちゃう癖があるような気がする。宇治橋渡る手前のところに鳥居があるでしょう。あそこの鳥居の中の正方形が、妙に気になったりすると撮っちゃうんですよ、こう正面から。お伊勢さんのこれもそうでしょう。それから今日改めて観て、桂の中にも、正方形が隠されているような写真が、結構ありましたね。多分正方形があると、つい撮っちゃう癖があるのではないかと思う。

【森山】
それ前におっしゃったことがありますね。“カルテジアングリッド”、難しく言うと、形は正方形ですけれども思考としては幾何学、デカルト以来の・・・、みたいなことを。今日、会場で見ている写真家から聞きました。もう一つの特徴は、「写真の四隅のどこかに、斜めの線がピシッとかかるように撮っている節がある」と。「ということは、ここに斜めが入ると写真の世界が外側にドワッと無限に広がる、というような効果があるのではないか」というのを、見ながら話していたのですけれども。“斜線”と“四角”ですかね。

【内藤】
今日、メモしてきたんですけど、皆さまもう一度展覧会場に戻るのでしたら、見て頂きたい。≪古書院二の間南面・一の間を望む≫という‘81年の撮影の写真。こんな不思議な写真は無い、と思ってずっと見ていたのです。要するにシフトレンズを使って、シフトしている。石元さんの立ち位置と構えたところから、どの位シフトしたのかというのが、如実に解かる写真なんですけれど、よく見ると実はとても不思議な写真だったりする。物凄い操作というか、意識が働いている写真です。今日石元さんがいないから、居たら言えないことを言おうと、思っていましてね。半端な人じゃないですよ。要するに、「何かを」「常に」「どの画面でも」考えているという、その意図が非常に強く働くタイプの人ですね。ただ、お伊勢さんの場合は、どなたか専門の方に聞いた方がいいかもしれないけど、あまりシフトしていないのではないか。あまりシフトレンズを使っていないような気がしました。

【森山】
使う暇が無かったのではないですか? あまりにもスケジュールがタイトで。

—伊勢の丸柱とエロス―

【矢野】
あんな大きなカメラを持っておられたのですね。(御正殿は)脚立もいけませんでしたしね。そして、奥さまに「おい、ちょっとここ、次、次」とか、指示出していましたよね。可愛い奥様でしてね。御正殿では、ジーパンは許されなかったものですから、白いズボン履いて白い上着を着て写されましたけれども、別宮の場合は、ジーンズで先生写していました。先生の、格好良かったですね、お尻が。「支えてくれ」と言うものですから、私支えて持っていたのですよ。なかなか先生が身軽なのですよね。ひょいひょいと乗ってカメラでさっとやられているという。

【森山】
その時、石元先生は72歳ですからね。

【矢野】
ちょうど私の歳でしたね。やんちゃ坊主でしたよね。今日は90歳のやんちゃ坊主と会えると思って嬉しかった、ほんとに。石元さんのお尻にエロスを感じたというのは、何やら可笑しな話ですけれども、今思うと。石元さんは神宮の丸い柱、これにエロスを感じるというようなことをどこかに書かれていました。私もそう思いますよ。あの檜のいい香りがします。檜というのは落ち着きますね。やはり日本人の一番好きな香りが檜の香りではないでしょうか。

【森山】
さすが、磯崎新さんですね。先ほど(の講演会で)「伊勢の丸柱」と、後ろから撮った「シカゴの湖の足」を比較されていた。

【矢野】
あれ見てはっと思いましたね。宇治橋は、遷宮の4年前に架け変えるのですよ。それで宇治橋が架かった時は、“つるつる”でした。ちょうど二十歳のお嬢さんの太ももの感じ、可笑しな話ですけれども。それがもう2年経ちますとね、少し荒れて“づるづる”なのですね、ほんとに。その一番いいところを、先生は写しているのですから、いいはずですよ。匂うばかりの、写真から檜の香りがしますよ。

—数字へのこだわり―

【森山】
これからは、石元さんというのは、一体全体≪桂≫≪伊勢≫のみならず、写真全体を通してどんな写真家だったのか、というのをお話ししたいと思うのですが。私一つだけ思うところがあってね、これは矢野さんに是非聞いて頂きたいと思うのですけれど。石元さんて、数字に物凄くこだわる、数にピシピシと合わせるという、そういうところがあるのですね。先程来言っていますが、「僕は、30までは勉強を続けていこうと思ったら、イリノイ工科大学の卒業式は、31の誕生日の前の日の、1952年6月13日、嵐の日だった。」ということなのですが、≪桂≫を撮ったのが、1953年ですね、まず。それから≪曼荼羅≫を撮るのが1973年なのですね。それで≪伊勢≫を撮るのが1993年なのですね。伊勢神宮の式年遷宮のように、二十年ごとに何か新しいものに挑戦していく、みたいなことがあるような気がするのです。私の体験を一つだけ。先程(スライドショー)のカラー多重露光について、武蔵野美術大学にご寄贈頂いたのですけれども、「86点寄贈します」とおっしゃっていたのです。それが6月の頭ぐらいでした。7月になりますと、「もう一点追加して、87点あげるよ」とおっしゃったのです。私その時、よく意味が分からなかった。「何か選びそびれたものがあったのかな?」。とんでもないのです。その間に、6月14日のご自分の誕生日が過ぎたので、歳が一つ増えたのですね。あげようと思った時は、86点だったのですけれども、87歳になっていたので、作品が一点増えるという。これは作家が如何に自分の作品というものを、子供のように大事にしているかというのもありますが、ご自分の生命、年齢の数だけという、数字に対する何か並々ならぬ、大事にするようなところがあるような気がして。石元さんも「常若」だったのでしょうか、もしかしたら。ということを、言いたかったのですけれど。

―「常若=とこわか」という思想―

【矢野】
「常若」という言葉は、平安時代・室町時代までは、日本人の普通の言葉だったのですよ。「あなたお元気でね」ということを「常若でね」と言う。三河漫才がいちばん最初に鼓をぽんと打って「とくわかー」と言うのです。それは「常若」から来ている。それが「とくわかー」に変化しているのですけれども。普通の言葉だったのですけどね、段々とそれが忘れられて。40年前の遷宮の時に「常若という言葉いいな」と桜井勝之進という禰宜さんが言い出しまして「これから常若でいこう」と私が言いまた。そして「常若、常若」という言葉を言い続けてきまして、40年経ったら、やっと皆がこの頃「常若」という言葉を使うようになりまして。やはり、言い続けないといけませんね。20年で繰り返すという気持ちが大事じゃないですか。皆、今日より若い日は無いのですから。いつまでもずっと一緒のような気持ちでおりますけれども、細胞全部変わっていますからね。遷宮を二十年で繰り返すことによって、また元に戻って常に若い気持ち。ここで話すと何ですけど、皆、魂を持っているのですよ。天照神様から頂いた魂というのを持っている。その魂が段々汚れてくるのですね。皆さん(の魂)、真っ黒!(会場笑)。禊したらいいのです。生まれ変わって、スパッと。神様、仏様、御先祖に手を合わすこと、これも綺麗になるのです。魂を洗う、お伊勢さんに行くのが一番いいのですけれども。今日こうやって美術館に来て綺麗なもの見て、ちょっとの間でも綺麗な気持ちになること、それが信仰なのですよ。石元さんも、だから、10年か20年という区切りでもって、またそれで色気付いて、カラーの多重の写真をやるとかね。

【森山】
違うのです。あれは半世紀間ずっとやっていたのです。ですからずっと若いのです。

【矢野】
そうですか! 私は遷宮済んでからあれが始まったと思って。

【森山】
シカゴに滞在していた時からやっていますので、ちょうど半世紀です。

【矢野】
そうですか、昔から色気があったのですね。(伊勢の)写真を撮られた時には、私は鮫の研究に一生懸命になっていた時代なのですよ。鮫と鮑をやっていたのですよ。私も10年ごとに専門を変えているのです。あの当時は鮫でしたね。高知県で私の児童文学が一番売れたのですよ。夏休みの高知県の指定図書になっている『ぼくは小さなサメ博士』という講談社から出た本なのです。ジンベイ鮫の話を
書きましてね。去年まで私は楠の文化史をやっていました。これも高知県に関係あるのですよ。その前は、ステッキの文化史、その前は枕。そういうふうに「常若」です。

【森山】
今日のキーワードは、実年齢とは関係ないのですよ。魂の若さです。

【矢野】
気持ちを若くしたらいいのではないですか。

—もしも石元が「待庵」を撮ったなら―

【森山】
昨夜、京都や東京から来た皆さんと、ちょっと夜お話ししていたのですが、京都から来た、陶芸家の柳原睦夫さん。会場にいらっしゃると思いますけれど、隣でちょっと面白い話をしました。京都の山崎に、利休の茶室「国宝・待庵」があるのですけれど、もしも待庵の撮影を石元さんが依頼をされたら、どうするだろうかと。予想その一「待庵は、石元さんは撮影なさらないのではないか」、二番目「待庵は石元さんが撮影をすることになったならば、今までの待庵の写真と全く違うような、写真を撮るのではないか」、あと「石元さんと待庵というのは、余りにもベクトルが合いすぎているのではないか。だから、とんでもなく増幅されるのではないか」、あるいは「似ているが故に、離反するのではないか」。歴史にイフ=ifはないのですけれども、そんな話をしていました。(内藤さん)ずばりどうぞ。

【内藤】
撮るのでしょうね。

【森山】
プロですからね。

【内藤】
僕は同調側なのではないかと思います。石元さんというのは基本的には、待庵に極めて近いのではないかと思うのです。つまりある種凝縮していくというか、凝縮していって精度をあげていくというようなところが似ています。完成度と、密度と、均一さ。僕は、石元さんが撮る待庵を見てみたかったなと思います。

【森山】
均質ですか、待庵は。

【内藤】
あの空間は、例えば床にしても屋根にしても、二畳台目しかないものだから、ものの距離が近いので、どのものの在り方も精度を落とせない訳ですよ。あそこに持ってくるものも、人間すらもね。空間のどこにもピークがあって、全部密度があるような。石元さんの写真の特徴というのは、これはね、(前衛いけばな作家の)中川幸夫さんが言っていたのかな、要するに、「画面の真ん中を撮ることができる人は沢山いる。だけど、画面の周囲まで撮れる、緊張をもって保持できる人は極めて少ない」と。それはやっぱり、何か石元さんの際立った特徴なのじゃないか。写されているこの全てのところに、密度がいき渡っている、というのが石元さんの在り方だとすると、石元さんの写真の在り方と、待庵の在り方というのは、シンクロする側にいくのではなかったか、と僕は思うんです。

【森山】
とんでもなく、密度の濃縮された空間が、撮れていたかもしれない。久しぶりに≪伊勢≫の写真が、あれだけ並んでいるのをご覧になられたと思うのですけど。今の話はどんな?

—伊勢の撮影は石元さんで終わりにしたらいい―

【矢野】
もうあれで、伊勢は撮らなくてもいいのではないですか?

【森山】
他の人が? はい、皆さん拍手! という感じですね(会場拍手)。

【矢野】
(石元さんの)決定版が在りますから。実はこの前の時(第61回遷宮)、写真撮影どっさり断りました。そして、共同通信、芸術新潮、NHKが「ハイビジョンで撮らして下さい」というのも、これもお断りしました。「大特集しますから」というのですけれども。「結構です、一般ニュースで結構です」と言ってお断りしました。

【森山】
それは、矢野さんの責任をもってお断りしたのですか?

【矢野】
私の責任というか、もちろん大宮司の責任ですけれども。私が担当していた在任中です、お断りしました。御遷宮当日にいろいろあるのですけれども、中に入るのはお断りしました、もちろん。一番心配なのは、この次の御遷宮の日なのです。真っ暗の中で、神様をお移しするのですけれども、前回は3,000人の特別の奉拝者が神社会代表で入りました。そしてマスコミ、当日は37社400名のカメラマンが入りました。外宮は150名27社。「フラッシュは絶対たかないで下さい」と。一般の3,000人の方々の持ち物は全部を預かりました。カメラも全部預かりました。「もしも、誰かが一発フラッシュをやったら、もうフリーとなってしまう、マスコミは(フラッシュ)たかれても仕方ない・・・」ということで、私は神様にお祈りしておいて、御奉仕に専念しました。でもこの次はどうでしょう? 皆携帯持っていますよね。携帯にフラッシュ付いていますよね。どうなるでしょうね? 私知りません。もう息子の時代です。

【森山】
息子というのは実の息子さんですか?

【矢野】
今、それが広報課員をしているのですよ。わたしが昔やったことをやっているのですよ。「お父さんの時代よかったね」と言うのです。「この頃難しいことがいっぱいで、何だか分からない、写真も申し込みがいっぱいだ」と。そしていろんな写真やって色を加工して。インド人の写真家まで入ってくるのですよ、国際色もいっぱいで。だから今回誰を選ぶかとなったら、石元さんだったら許されるのでしょうけども、体力的にも無理ですしね。じゃ誰かと言ったら、「もう石元さんで終わりです」とこう言いたいです(会場拍手)。

NHK断ったのは何故かというと、「最低限20ワットの電球を、所々へ付けさせて下さい。そうじゃないとハイビジョンは写りません」という。電気はいけません。「浄暗(じょうあん)」という言葉があるのです。清らかな闇、清浄の暗(やみ)。「浄暗」を写して下さい。「浄暗」という言葉、これはお祭りの夜だけの光という意味なのです。何でも見たい、奥の奥まで見たいというのは、人情として皆ある。でもきりがないですから。前々回の、昭和38年の遷宮で初めてテレビカメラが入りました。その夜が写るカメラは、日本で3台しかありませんでした。アポロ(月面着陸)へ持って行ったカメラです。今、全部持ってるでしょう? そしてカメラ性能は真っ暗でも写りますからね。それで写してきますから、次から次へ、ぐっと奥の奥へ。そのうちレントゲン写真まで発達するかわかりませんね。きりがないですしね。石元さんで終わりと言いたいですね。私が大宮司ならそれ決断するのですけれど、私そんな権限無いですから。そんな難しい時代が来ている訳ですよ。

しかし、石元先生いい仕事をしてくれました。伊勢としてもありがたいです。あれだけのことを、記録として残してくれてます。だから、永遠に、この美術館大事にして下さいよ。

【森山】
なんかもう結論みたいですけれども。でももうちょっと時間があるようです。私たちは「常若」は二十歳とは限らないという「常若」と「浄暗」というですね、見たい欲望のままに突き進んでいくのはいけないと。「浄暗」というものを大事にした方がいいということを、ちょっと学ばせて頂きました。

違う質問なのですが、内藤さんはご自分の建築を石元さんに撮ってもらって何冊も写真集になさっています。さっき、とっても撮影が早かったとおっしゃっていましたけれども、その作品を撮って頂いた時の、これはお伝えしたい、というエピソードなどありませんか? 私、一回だけあります。その(内藤さんの写真集の)編集をお手伝いしていたのですが、安曇野(ちひろ美術館)を撮っていた時に、「川の波の高さは、どういう高さが、編集者としてはいいの?見にきてね。」と言われて、私次の朝、あづさに乗って行ったことがありました。どっちでも良かったのだと思うのです。「こちらにして下さい」とただ言いました。

何か石元さんらしいエピソードというのはないですか? 撮影しながら怒ったりしませんでしたか?

―建築家よりも建築を知っている、おそろしく頭のいい写真家だ―

【内藤】
どう言ったらいいのでしょうね。普通の撮影ではなかったことは確かですね。さっきちょっと矢野さんが言われましたけれども、おそらく「建物の図面が欲しい」というふうに言われますね、事前に。たぶん撮影の前によく図面を見ているのだと思うんです。撮影の手順が異様です。あの重い機材、もちろん助手の方がいらっしゃいますけれども、重い機材を持ちながら、ある建物があるとしたら、「こっちから撮ったら、次こっち、次こっち」と順番に撮りたいじゃないですか。そうじゃないんですね。ここを写したと思ったら、全然違う方向から撮ったりとか。そうですね、一日の光の状態をあらかじめ頭の中に入れておいて、「大体この光で、この状態で、ここで撮りたい」というのが、おそらく石元先生の頭の中に、全部組み上ったうえで現場に来られるのですね。だから、普通の人から見ると「何で、ここ撮って、次何であそこで撮るのだろう」ということになる。ところが、出来上がった写真を見ると「なるほど」と納得する。その光でしか写らないようなものを、ちゃんと写されている。なんていうんだろうな、理解力というか、理解度というものの見事さですね。私は、建築を生業にしていますけれども、僕らよりもあるかもしれない。図面を見て、何が、どういう風に、どうなっている、というのを理解する能力が凄いと思いましたね。

【矢野】
階段に光が射して、ジグザグになっているのがあるでしょう。あれ右側は朝日の時、左側は夕日の時しか出ないんですよね。昼間はあんな光は出ないですよ。ですから石元さん、その時間にちゃんとそこへ行って、撮るのですね。(≪内宮正殿 木階と登高欄≫)

【内藤】
多分、それも全部予め分かっていて、そのショットを「この時間のここで、こういう風に狙わなければいけない」ということが、頭の中に全部組み上っているのではないかと思うのです。

【森山】
さらに先程スピーチを終えた、磯崎さんの講演では、建物の図面のみならず、渡辺義雄さんが前に撮った『伊勢』の写真とか、人が自分よりも前に撮ったものまで、全てが頭の中にあったというお話をされていました。

【矢野】
勉強したのですね。

【森山】
同じものを撮らない、という覚悟を決めたのでしょうね。階段のところも、一筋の光というのが渡辺さんにもあるのです。でも石元さんが発表された、光、三筋のギザギザ。

【矢野】
あれは無いですね、渡辺さんにはね。変ったことを狙ったのですね。

【森山】
同じことはしない。つまりおそろしく頭のいい人だった。だった、なんて過去形じゃいけない。

【内藤】
おそろしく頭のいい人だと思いますよ。石元さんの家に行くと、置いてある本が尋常じゃない。「えっ、こんな本を読んでいるの!」みたいな。ある日行ったときはモンテーニュとか置いてあったりする。

【森山】滋子さんが亡くなって、最初に(石元家を)訪れたときモンテーニュでしたね、『エセー(随筆集)』でした。で「読んだ?」って、来訪者、皆、私のみならず「これ読んだ?」とか聞かれて。建築なのに建築家が読んでいない本とか、沢山、言われたりするのですよね。

【内藤】
実際、どれ程読んでいるか分かりませんけれども。普通で考えると、石元さんの読書量は半端ではない。だけど「あそこに書いてあるからこうだよ。」とか言ったことは一度も無い。そういう事は一切言わない。だけど頭の中に全部入っている、というタイプの人じゃないかと思うのです。

—すてきな気づかいのできる人—

【矢野】
私に、いつも「お土産。」と言ってウィスキーをくれたのですよ。

【森山】
(石元さん)自分は飲まないのに。

【矢野】
それもとても私には買えない、当時高級な舶来のウィスキーを「ボン!」と。だから、先生飲めるとばかり思っていましたね。なぜ私ウィスキーをもらったのかというのが、やっと分かりました。というのは、NHKの番組の中で“神餞(しんせん)”を3年間追っかけた『神餞』という特集番組を作ったのですよ。神饌―神様にお供えする食べ物という。いろいろ追っかけて、「ここまではいいですけれども、これから先は写してはいけませんよ」と言ったら、甲子園へ持って行くカメラ持ってきて、100メートルも離れているところから神様の食堂を目指して写したり。そういう無茶な事もNHKしてくれたのですね。その時の中で「干した鮑、どういうようにして食べるのですか?」という質問がきたものですから、私「これは、ウィスキーに合いますよ」と言ったのですよ。そしたらそれを(石元さん)覚えていて、それで「彼ウィスキー好きなのだな」と思って、やってくれたのですね、気遣いです。ところが、神宮が「(神宮の)広報課長が、ウィスキーがいいですよ、なんて、伊勢神宮の神主が! 酒造組合に申し訳無いではないか!」ということで・・・・・。

【森山】
首が飛びそうになったとか?

【矢野】
「ウィスキーにもならいいけど、ウィスキーに合いますよと言った。」ということで、再放送の時には、「それを、カットせよ」と。「もしカットしなかったら矢野の首を切ると。」そこまでやりましたね。NHKが、「矢野、首切られては可哀そうだ」と、カットしたのですけれども。その番組、そこで面白くなくなっちゃいましてね(笑)。そんなこと先生覚えていてくれたのですね、きっと。

【森山】
ウィスキーで身を滅ぼしかけた訳ですね。きっと、石元さんがお持ちになったウィスキーは半端なものではなかったのでしょう。どんなものだったのですか?

【矢野】
スコッチだったですけどね。伊勢へ来て買って頂いたように思いますね。私のために頂いたのだなぁ・・・・・。

【森山】
石元先生は飲まれませんので、プレゼントしないように。

【矢野】
あれからお目に掛っていないのですよ。だからね、今日会いたかった、残念ね。元気でいて欲しいね、いつまでも。

【森山】
元気でいて欲しいです。そろそろ私たち時間なのですが、何かこの機会に石元さんについて。

【内藤】
言いたいことは、まだ山のように実はあったのですが・・・・・。一つは「不二(ふに)」の話しをもっとしてもよかったのかな。

【森山】
「不二」、二つにあらずということ。

—伊勢とシカゴのシンクロ―

【内藤】
石元さんの生き方というか、今に至る生き方のなかで(不二は)とても大きな言葉だったので、その話しをもうちょっとしても良かったかなぁ、というのと、展覧会に即していうと、今日改めて見て、どうしても気になった写真が一つあった。それは、お伊勢さんの写真。しめ縄の紙がすぅーと斜めになって。あれは何と言うのでしたか?

【矢野】
紙垂(しで)です。

【内藤】
紙垂ですね。それが降りていて、ちょっと向こうが闇になっている写真がありますね(≪荒祭宮遥拝所の注連縄と紙垂≫)。あれがとっても綺麗な写真だな、と思ったんです。森山さんが(スライドで)写した≪シカゴ,シカゴ≫の、新聞が舞っているものと、妙にリンクしたのです。要するに、しめ縄の向こうの方にちょっと石が見えているのですけど、その何て言うのだろう、いわゆる≪シカゴ,シカゴ≫のアメリカで撮った風とコンポジションの話と、日本ならではの、何か要するに空気の「感じ」というのが、非常に対比的に二つの写真で見えたので、もし展覧会場に戻られる方があったら、是非それをもう一度見て頂きたいなと思いました。

【森山】
内藤さんがご指摘になった写真は、もちろんどの写真か?

【矢野】
はい。分ります。

【森山】
あの光景は、普通なのでしょうか? それとも、ちょっと待機していないと、あのショットは、撮れないような類のものですか?

【矢野】
「これから先は神聖な場所ですから、立ち入ってはいけません」というところへ貼るわけですよ。紙垂をね。でもこの頃の人は、そんなことを知りませんから、「立ち行ったらいけないなら、鉄条門を張りなさい」なんて言う。そんな時代になってきましたね。困ったものですね。先生が撮られた時のは、まだ本当の和紙だったでしょうね。きりっと曲がっています。この頃どうもナイロンの入っものしか手に入らなくなったものですから、きりっと折られずに、たらたらとしています。その代わり純粋の和紙だったら雨降ると、だめになりますけれども、ナイロン系は持ちますからね。難しいですね、文化を守るというのもね。変わらないでおこうと思っても、どうしても変わります。何から何まで変わってきます。大変な時代に生きています。そういうのも記録ですよ、写真は記録ですね。今日は皆さん熱心に聞いてくれてありがたいですね。これも先生のお人柄ですよね。

【森山】
もちろんです!先生、石元さん、いらっしゃりたかったのだろうか。出身地の高知に来て、壇上にというの、照れくさかったのではないだろうか。私たちは、石元さんの話をしているのでそうでもないですけれども、ご本人は・・・。

―石元さんの写真における触覚性について―

【会場より質問】
石元先生が建築を撮る時には、触覚性を拒否されているような気がしますが、これについてどう考えられますか?

【森山】
私に質問されていないと思うのですが、ひとつだけ言えるのは、石元さんがシカゴ、ニュー・バウハウスで学んだとき、つまりバウハウス、ニュー・バウハウスの系列の、デザイン教育のなかには、テクスチャーというものが、物凄く重要なものであったのですね。ですから、石元さんが、触覚、一つは、テクスチャーというものに余り無関心だったということは、あり得ない。触覚性ということには、テクスチャーということについては、非常に意識的でありました。意識的でない訳がないということ、ひとつは言えます。いかがですか、難しい質問ですよね。

【内藤】
まぁ言ってみると、“感じ”なので、あまり上手く答えられないかもしれないですけれども。石元さんは、怒りんぼですよね。「何でこうなっているの?!」とかって、年中怒っている訳ですよね。その度合いで言うと、桂には、怒りつつ撮っている感じがあるのですよ。相関関係を持ちながら、「こういうふうになっているけれど、俺はそういうふうに撮らない」とか。「作者はこういうふうに見せたいのだけれど、僕はそういうふうに思わない」とか、そういう撮り方なのですよね。伊勢に関しては、ちょっとそういう怒りというか、要するに怒って対象と交わる、という感じが薄いような気がするのです。なんとなく。特に本殿の辺りの映像は極めて素直に、すぱっといっていて、ただその本殿の外に出たときの、さっきのしめ縄の写真なんていうのは、実にウェットな感じで、何かこう、感情が行き交っている写真のような気がしました。
たぶん僕はその世代でないから分からないけれど、伊勢というのは特別な意味を無意識のうちにでも持つ場所だったのかな、という気がします。ですから桂の撮り方と伊勢の撮り方は、全く違ったスタンスと気持ちで撮っているのではないかというふうに思います。だからさらに、それをはっきりさせるためには、もう一つ「待庵」というものを置いたときに、おそらく待庵はもっとこっちなのか、あるいは三角になるのか分からないけれども、ひょっとしたら待庵を撮ることによって、桂と伊勢の位置関係が、石元さんの中で、はっきりするのじゃないかという、そういう話だったのではないかと思います。

【森山】
ありがとうございました。もう既に、時間がオーバーしています。この辺りで、私たちは、壇上で話すのは止めたいと思います。是非少しでも、何か感ずるところがあれば、展覧会場で石元先生の写真に触れて頂ければと思います。マイクをお返ししたいと思います。

*本鼎談集は、高知県立美術館企画展「写真家・石元泰博の眼―桂、伊勢」の関連事業として、2011年10月30日に、高知県立美術館ホールにて開催した「スペシャル・トークショー」をまとめたものである。

【発行】
2013年10月
高知県立美術館 高知市高須353-2
*掲載の写真作品は全て 撮影:石元泰博 ©高知県,石元泰博フォトセンター