うつりゆくもの 変わりゆくもの 石元泰博の世界3

《シカゴ 街》1959-61年 ©高知県,石元泰博フォトセンター
《シカゴ 街》1959-61年 ©高知県,石元泰博フォトセンター

ニュー・バウハウスという学校

シカゴ・インスティテュート・オブ・デザイン(ニュー・バウハウス)は、1937年にシカゴに開校された。写真家のモホリ=ナギ、ハリー・キャラハン、アーロン・シスキン、建築家ミース・ファン・デル・ローエ、フラードームを作ったバックミンスター・フラーほか、教授陣には近代建築、写真を牽引してきた芸術家達が名を連ねる。石元は1948年から52年までここで学んだ。ニュー・バウハウスには、写真科以外にデザイン、建築、工業デザインがあり、最初の二年は各科共通のカリキュラムをこなし、三年から専門に別れる。

カリキュラムは「落書き」から始まる。テーマは特になく、先生も書き方について指導はしない。落書きも毎日やっているとあきてくるので、自然と鉛筆の持ち方を変えてみたり、紙や筆記用具も変えてみたりし始め、最後には素材による線の違いに気付いていく。

一方、木や鉄を削ったり切ったりして、自分の手に持って“いい感じ”の形を作る「ハンド・スカルプチャー」という授業では、削る道具から作る。素材と道具の関係、触覚から得られる素材の質感や、塊のボリュームも視角だけで掴めるようになる。また、「鉄やガラスなど、様々な素材をくっつけなさい」という授業では、一番簡単なジョイントの仕方を自分たちで考えた。時にまったく新しいジョイント工法が生まれたりする。こういった課題をこなす中で、学生達は素材(対象物)に対する皮膚感覚のようなものを体得し、マニュアルに縛られることなく、自分で考え出す力を養っていった。

写真の授業も、具体的な技術を教えるという授業ではなかった。ある日「空を90%入れた写真を撮ること」という課題が出された。相変わらず課題の説明はない。意味もわからないまま、学生達は各々撮影に出掛けた。石元も空にカメラを向け撮りはじめた。そして、現像してみて初めて多くのことに気付いた。原板にはカメラのホコリによるピンホールが幾つもでき、現像むらや指紋の跡がハッキリと出てしまったのだ。

ピンホールの原因は、普段上を向けて撮影することがなかったため、蛇腹式のカメラの中にたまったホコリが落ちてきたことによるもので、指紋の跡は印画面の大部分が白い空のため、ちょっとした現像むらや指の跡まで、ハッキリと写真に現れてしまうためだった。

写真家というものは、一瞬をとらえる職業である。その時を逃してはならないし、その時は二度と巡っては来ない。「いついかなる時でも最上の条件で撮れるように、常にカメラの手入れをしておくこと」。その写真を良く生かすように現像焼き付けにも「細心の注意をはらって行うこと」。“空を90%入れた写真”を撮ることで、良い作品を撮るために、写真家として当然なすべきことに気付かされたのだ。これは、石元が気付いたことで、ほかの学生はその人なりの発見をしたことだろう。

このように、この学校では学生たちに自らその意味を考え、理解させるよう導く課題が教授陣により実に丁寧に考えられ、その錬られた課題がポンと一言で学生達の前に出されるのである。あとは学生自身が理解し納得するまで延々とその課題をこなすのみで、先生は口を挟まない。そんな授業の数々が、写真家石元を育てていったのである。

(掲載日:2005年6月7日)

影山千夏(高知県立美術館主任学芸員/石元泰博フォトセンター)